受講生の声と実績
受講生の声と実績
産経新聞「夕焼けエッセー」2011年6月、月間賞
追手門学院「青が散るAward」2012年優秀作品賞
NHK「銀の雫文学賞」2013最優秀賞→本作を原作に、FMシアターにてラジオドラマ放送
月刊たる「今宵、とある酒場で」第一話に掲載
講談社小説現代2013年8月号で入選→2016年、文庫本「阿刀田高・編『ショート・ショートの花束8』に収録
忘れられない言葉がある。2010年3月29日 心斎橋大学説明会。二十人ほどの参加者に、総長の藤本義一氏は問うた。
「書くことにおいての、プロとアマの違いは何ぞや」
各々が考えを巡らす沈黙の中、後席の中年男性が遠慮がちに口を開いた。
「自分の作品でお金を取れるかどうかでは」
もちろんそれもある、と頷いた総長は、
――ものを書くということは、自分を捨てて人を救う文章を綴ることなんですな――
と、真摯な眼差しを参加者に向けた。つまり、それの出来る人間がプロで、その先に「本が売れる」という事実がついてくるという話であった。
『己を捨て、他者を救う物語を紡ぐ』
私はこの一言に心揺さぶられ、まずは説明を聞くだけのつもりが、学費の工面も考えず、帰りには入学手続きを済ませていた。
職業作家とはなんと意義深い仕事なのだろう。以前からあった、何か書いてみたいという漠然とした思いは、「プロの物書きになる!」の野心に変わった。早速、開運のダルマを買い、願いを込めて一眼を入れた。
大志は、おのれ勝手に抱けても中身は空っぽである。書くという経験は、子供時分は学校の作文、大人になってからはブログなどの雑記がせいぜいで、小説に至っては、ただの一行も書いたことがない。どうすれば作家になれるのかも皆目わからない。
衝動的行動のあとに訪れた不安と疑問は、カリキュラムが進むごとに解消されていくことになる。一年目は、原稿用紙の使い方や表記の決まり事、作品は他人に読ませるという意識を持って書くべし、という心得……まさに基礎の基礎からの講義だった。さらにエッセイ、小説、脚本、児童文学など、さまざまなジャンルを学ぶ中で「物書き」という大きな枠から、目指す方向を絞り込むことができた。私は「小説家」に目標を定めた。
二年目は希望分野の選択制になる。私は〈小説・エッセイコース〉に進んだ。プロデビューには、出版社主催の新人賞受賞が早道なのも識った。よし、と意気込んではみるが、公募に出せるような枚数にも内容にも程遠い。講師からテーマを与えられる、400字原稿用紙2、3枚の課題にさえ四苦八苦した。
そこで、書くにはまずインプットせよ、の教えに読書を見直した。講師陣は古典から現代文学……膨大な図書の中で、プロを目指す上で読んでおくべき作品を提示してくれる。
書くという自覚を持つと読み方も変わった。先人の綴った文章を、ときに音読し、その作家独自の言葉のリズムをなぞったり、心に響いた文章はノートに書き写した。
インプットしながら『アウトプット』――大学院に進級してやっと、小説らしきものが書けるようになった。
心斎橋大学では、ひと講師1作品で添削を依頼できる。
自己陶酔や思い込みを捨てて書くのはことのほか難しい。自信のある文章ほど指摘が入った。テーマ、構成、語彙、レトリック、伏線の張り方……さまざまな要素で成り立つ小説は、知れば知るほど、思案の底なし沼だ。
それでも、初めの頃は800字もやっとだったのが、30枚、50枚と中身を膨らませられるようになり、200枚を越すものも書けるようになった。公募にも挑戦、入選や予選通過の知らせもチラホラ舞い込む。厳しくも愛情溢れる添削のおかげで、だんだんと「コツ」が掴めてきたのかもしれない。
――ものを書くということは、自分を捨てて人を救う文章を綴ること――
その声を聞いた教室で、私は今も学ぶ。
藤本義一先生は2012年10月30日に永逝された。しかしあの言霊が私の記憶から薄れることはない。
片目のダルマが私を見つめている。狭かろう視野に詫びながら、私は今日も生みの苦しみに悶える。あの言葉を念仏のように唱えながら。
※事務局より
2018年春よりコースカリキュラムが変わり、1年目より学びたい分野を選択頂けるようになりました。
多くの分野を学び、視野を広げたい方は、複数コースを受講(同時又は半期ごと変更)頂くことをお勧め致します。詳しくはスタッフにご相談下さい。