受講生の作品
受講生の作品
「今日は年越しやなあ。お豆さん食べなあかんな」
その写真を見た途端、着飾ったわたしに語りかける亡き祖父のしゃがれ声が甦ってきた。一九六三年頃の節分に、大阪市内の神社で撮られた写真。たぶん六歳のわたしは、橙色のウールの着物を着て、鹿の子のついた髷まげを頭に載せ、ビラビラと簪かんざしを挿し、口に紅までさしている。大人に化けた「おばけ」の装いだ。
あの頃の大阪の年寄は、節分のことを「年越し」と呼んだ。節分は立春の前日で、旧暦の元日と立春は、ともに新年だと捉えられていた。ほぼ同時に訪れることもあり、節分の夜は年越しの夜と実感されていたようだ。
季節の変わり目である節分には、邪気(鬼)が生じると信じられていたので、それを追い払うための行事が昔から広く行われてきた。その代表格が「豆まき」で、「おばけ」もその一つだ。男性が女装を、女性が男装をしたり、年寄が若者の、子どもが大人の恰好をしたりして、「異装」で鬼の眼を逃れるという。
職場の休憩中に何気なくその話をした。
「子どもの頃、大阪の節分に『おばけ』という風習があってね。女の子が着物を着て、髷を付けて、お化粧して、大人に化けるねん」
「えー。ほんまですかー」
後輩たちが興味深々、向こうのコーナーからも寄ってくる。節分の「おばけ」をみんな知らないようだ。知っていた一人も、テレビドラマや漫画で見て祇園の舞妓さんたちの行事だと思っていたらしい。
「節分のおばけ」について、インターネットで検索してみると、確かにヒットするのは花街のイベントばかり。「髷」、「こども」をキーワードに加えると、花街のイベント画像に交じってようやく、わたしのものと似た髷の写真が現れた。古い和ダンスから見つかって、オークションに出したものらしい。
念のために同級生たちに聞いてみたが、大阪でも神戸でも節分に髷を付けた記憶を確認できた。
ネット上に「『おばけ』ってご存知ですか」という、「yahoo!知恵袋」の投稿(二〇〇九年)を発見。神戸で子供時代に経験した「おばけ」について、知っている人を探していた。経験者からの回答はなかったが、今は「節分おばけ」ということばが使われているのを知った。
たった六十年ほど前の行事なのに、こんなに痕跡が残っていないのは何故だろう。アナログな時代の情報を、インターネットに求めるのが間違っていたのかもしれない。久しぶりに大阪府立中之島図書館を訪ねて、「大阪の節分のおばけ」について書かれた文献はないかと相談してみた。いろいろ資料を提供していただいたが、江戸時代から明治・大正期のものばかり。わたしの記憶の裏付けとなるような記録は見つからなかった。
再びウェブ検索を試みた結果、論文「『節分おばけ』と結髪の習俗」(眞下美弥子、二〇一五年)に辿り着いた。京都の事例を中心とした考察だが、冒頭の説明に目を引かれた。
「『節分おばけ』とは(中略)京都の花街の行事として名高いが、戦前までは京阪を中心とする、関西圏の一般の人々の間でも広く行われていた。しかしこれらは家族間など個人的な場で行われた性格上、写真等の資料は限られており、体験した方も少なくなっている等の事情から、必ずしも実態は明らかではない」
一般の人々の「おばけ」の痕跡が残っていない背景は理解できた。しかし、戦後の大阪で、「おばけ」の髷で頭を飾ったわたしたちがいて、写真も残っている。経験した本人たちが生きている今のうちに、そのことを記録に残しておきたいと思った。
戦前、お化け髪は、地髪を髪結いさん(かみいさん=美容院)で結ってもらったというが、戦後、わたしより少し上の世代で「付け髷」が流行した。世の中が落ち着いたこともあって、付け髷が商業ベースに乗り、小間物屋などで手軽に入手できるようになったからだと想像する。それが何故、短期間で廃れたのだろう。
眞下氏は論文の「結び」で、その原因を着物文化の衰退によるとした上で、着物文化と結髪が強く結び付いていることを示唆された。着物には、着用者の性別、年齢、立場の違いによる、髪型も含めた「きまりごと」がある。それがあるからこそ「異装」が成り立っていたのだ。
今はだんだんと、性別、年齢、立場にとらわれない生き方ができるようになってきた。旧来の「きまりごと」から自由になれた今、それとともにあった文化のみが、そのままであり続けることはできないようだ。
節分のおばけが、花街でしか行われなくなった一方で、ハロウィンの仮装が若い世代で盛んになった。さらに「節分おばけ」が「日本のハロウィン」として注目を浴びている。京都では「百鬼夜行」の妖怪に扮する、節分の仮装行列まで始まったという。
かつては人間という括りの中で、性別や年齢などの区分を崩すのが「おばけ」の面白さだった。その区分があいまいになった今、人間を超え、妖怪になって初めて、その醍醐味を味わえるのかもしれない。いつの世も、庶民のコスプレ願望は際限がないようだ。