受講生の作品
受講生の作品
「次どうする」
カルチャーセンターの同じクラスの人に聞かれて言葉に詰まった。8ヶ月前からエッセイの教室に通っていて終了が近い。小説や児童文学、脚本、落語。別のコースに移る人もいるようだ。もちろん辞める人もいる。
教室に何の不満もなかったが、私はその時いろいろと厳しい現実に直面していて、頭の中がパニックだった。
この教室に申し込んだ時、カルチャーセンターを自動車教習所みたいな所だと思っていた。入金し受講しさえすれば一年でプロのエッセイストになれて、その中の何人かが有名人となり、がっぽがっぽと大金が稼げる。そう信じていた。もちろんそんなことはない。
しかし間の悪いことに、私の文章が4月・9月と朝日新聞に掲載された。がっぽがっぽの妄想が更に膨らむ。
「ムラカミさん。あなたの文章評判いいんですよ。今の投稿って形ではなく、いっそ連載にしてみませんか」
担当記者からお誘いがあり、連載を始めたら、これまたすごい反響で
「ムラカミ先生、是非とも書籍化しましょうや」
となり、発刊本は売れに売れて原稿の依頼は引きも切らず、私の原稿上がりを各社編集員がお茶を飲みながら応接室で待つ。そんな光景を頭に描いていた。
が、現実は厳しく、私の文章には一本の反響もなく、担当記者の人はムラカミをワタナベと誤って記憶している。投稿に気付いた昭和一ケタ生まれの姑からは〝頭が良くてよろしいこと〟と嫌味を言われる始末。いろいろなエッセイコンテストに投稿するが全て落選。
12月を迎える頃には、さすがに妄想と現実の違いに気付き始めた。
「ムラカミ君、ちょっと」
社長に呼ばれたのは、その頃だ。
40歳の時、ある男に全財産を持ち逃げされ就職活動をした。社会経験ゼロ、何の資格も能力も持たない女を正社員として雇ってくれる会社なんてなくて、社会保障もボーナスも付かない非正規雇用の仕事をいくつも抱えて娘2人を育てた。何とか2人を独立させ、気付けば人生終盤の還暦手前。同年代の友人達は定年を迎え退職金を手に悠々自適生活に突入してゆく。
それに比べて私はどう?娘に全てつぎ込んで60手前でスッカラカン。初老の今から老後資金の貯蓄に励まなければならない。
〝やっと子育てから解放されたら次は自分の医療費と老人ホームと葬式代と墓の為に働くのかあ…〟納得がいかない。そこへふと浮かんだのが
〝プロのエッセイストになる〟であった。
〝これなら一発当てられる〟
「ムラカミ君、来年のパートやばいぞ」
社長が言う。
「本社が子育てママを雇うよう指示してきたんや。子育て終わったら即戦力として正社に引っぱるつもりらしいで。若いから長いこと働いてくれるしな」
社長に言われて本社まで面接に行ったけれど、担当の人は〝ご縁がありましたら、こちらから連絡させていただきます〟の一点張り。家に帰って貯金通帳を見ると32万8千4百52円。もし職を失ったら、カルチャーセンターどころではない。
翌朝、右の奥歯が砕けた。一連のプレッシャーからくるストレスで、寝ている間にものすごい力で歯ぎしりしたらしい。
「30万です」
歯医者は言った。
「3本続きの差し歯で1本10万。保険適用の金属製のものがもっと安くてあるんですが、ムラカミさん金属アレルギー出てるから高い方のセラミックしか使えません」
高級志向の体質がうらめしい。これで預金残高は2万8千4百52円。エッセイ教室は無理だ。
ケータイが鳴る。
「愛媛県庁です」
知らない声の主が言った。
「あなたの作品が〝最終選考〟に残っています」
〝最終選考〟そんな言葉は大きな文学賞候補の作家に向けられるものだと思っていた。まさか自分に発せられるなんて。
急いで県庁募集のエッセイコンテストを検索すると、賞金は10万・5万・3万となっている。焼け石に水の額だけれど、この際ぜいたくは言ってられない。喜ばなければ。
後日私のもとに県庁から届いた封書には〝佳作〟の字が大書されていた。佳作に賞金はつかない。パート採用の連絡もない。
もし将来、あなたがどこかで〝むらかみしゃんこ〟の名を見たら、それは私が夢をあきらめず書き続けている証です。