受講生の作品
受講生の作品
わしは今、東京国立博物館の展示室の片隅で静かに息をひそめている。しかし、この頃は、再び戦(いくさ)が始まり、人々の血が流れるのではないか、嫌な空気が漂っている。
わしは、鎌倉時代の末、元亨二年五月(一三二二年)に、備前国(岡山)の長船(おさふね)の刀頭・景光(かげみつ)の手でこの世に出でた。
長船派の三代目であった景光は、幼い頃から熱い鉄を素手で握り、大火傷を負ったりしたが、己の精神をも鍛錬し、強靭なわしを造った。特にこの地は、砂鉄、水、木炭が豊富で、古来より刀工が集まり、競い合ったので、その匠の技が後の世に伝わった。その結晶のわしは今、国宝の座にある。
この博物館の刀剣専門職員は、わしの身が錆びぬように、半年に一度、、念入りに油をひく。充分に手入れが施されている。だからと言って、わしは安穏としている訳ではない。ガラス越しに集まる刀剣ファン、特に『刀剣女子』に、騒がれている。
時代が変われば人も変わる。わしの身体の倶利伽羅竜(くりからりゅう)の頭(かしら)が、柄(え)から少し顔を覗かせているのは、磨き上げられ、造り変えられたからである。若者が小竜をカワイイと囃すが、生業(なりわい)はあくまでも人斬り。
言うておくが、倶利伽羅竜の彫り物は不動明王の象徴である。不動明王はこの世の悪魔を下し、仏道に導きがたいものを怖がらせ、不埒な煩悩を打ち砕く。わしは、世の道理を解さぬ悪人を懲らしめ、民が平穏に暮らす世に導こうと、頑固に歩んできた。
ーああ、あれから七〇〇年の時が過ぎた。
長船で生まれたわしを見初めたのは、後醍醐天皇の忠臣・万里小路(までのこうじ)藤房だった。彼は、南朝の武門の誉れ楠木正成に、わしを託したのだ。わしは万里小路氏の期待に添いたい、長船景光の巧みを世に知らしめたいと、全妖力を発揮した。正成は孤軍奮闘し、己の命を惜しむ様子もなく、湊川の戦いで最期を遂げた。わしはこの仕事の後、姿を隠した。
戦場(いくさば)は悲惨で、命のやり取りをしたあとに血が臭う。人のうめき声やすすり泣きが聞こえ、言葉にできないほど虚無感が漂った。
わしが、再び表舞台に出たのは江戸時代、幕末であった。河内の庄屋の納屋で眠っていたのだ。その庄屋の家の者が、次々と病気に倒れ、災難に遭い、若くして世を去る者も出た。一族は、わしを妖刀だと決めつけ、刀屋に売ったのだ。わしは武具である。相手を傷つけるばかりではなく、自分の身を守るものでもあるのに。鋭いゆえに疎まれたのだ。
刀屋は儲けるために、京の目利き・本阿弥家に我が身を鑑定させた。現代で言うと、わしの刃長は74センチ、反り2.9センチ、総長約100センチである。
太平の世に刀を鑑定する本阿弥の目はもう錆びていたのか、わしをただの偽物として、『折り紙』(鑑定書)を付けなかった。
わしは内心ホッとして、また何処かで眠ろうと思っていた。が、刀収集家の幕府代官・中村覚太夫がわしを買い求めた。わしを個人の趣味趣向の珍品として扱ったのだ。暫らくして、奴は病に罹り直ぐに落命した。
わしは、志を高くし、世のため人のために働く者に、わしの妖力を使って欲しい。
弘化三年、刀屋・網屋がわしを買い、尊王家の毛利家に売るが、毛利家はまたもや本阿弥家で『折り紙』は付けないとの鑑定に、欺かれたと怒り、わしを元の網屋に戻した。刀は戦場で斬れねばただの鉄くず。戦場で『折り紙』など不要。所詮、畳の上で、美術品のごとく刀を買い求め、利を得ようとする者、魂を銭に売った者をわしは武士(もののふ)と認めん。
そんなところに救世主が現れた。
死体の試し斬りや処刑の首切りを役目にしていた山田浅右衛門吉昌(よしまさ)である。刀の切断能力を基(もと)に、刀工を格付けした「業物(わざもの)」と呼ばれる指標を示した。山田家は、わしの切れ味に感服したのだ。浅右衛門は土佐藩と張り合い、五万両でわしを求めたのである。
あの幕府の処刑人、首切り浅右衛門の家が大名と張り合うほど銭があったのか、と不思議でならんかったが、死体の肝で創った『慶応丸』という薬で財を成していたらしい。
世の中には不思議な裏稼業があるもんじゃ。
しかし、刀剣収集家の十五代彦根藩藩主・井伊直亮(なおあき)(井伊直弼の兄)が強くわしを求めるので、井伊家にわしを渡した。家督を継いだ直弼は、わしを好んだせいか、大老に
就いた途端、尊王の志士を断罪に処す安政の大獄を断行した。妖力が裏目に出たか、直弼は桜田門外の変で暗殺された。
山田家に再び戻ったわしは、明治六年、宮内省に献上され、明治天皇の腰のサーベルに姿を変えた。楠木正成の佩刀であったわしを大変お気に召されて、守り神にしたそうだ。
わしは、平穏な日々を過ごしたい。この身の小竜にほほ笑む若者と共にありたい。しかし、この先不届き者が世を乱し、戦をするなら、ガラスケースを破り、其奴をぶった斬る。