受講生の作品
受講生の作品
なにか母親と似たところがある人と出会うと、出来るだけ親切にしたいと思う。しかし、当の母親には優しく接することが出来ない。
母は酒と不幸が好きで、幸せだとか、めでたいとか、そういう状況になると落ち着かず、なんとか不幸の側にメーターを戻そうと、自らトラブルを起こす。破滅型の人間は、傍から見ている分には特異な魅力を放つが、近づきすぎると、こちらの人生も巻き込まれて危ない。親というだけで十分に近い彼女との距離を保つために、私は冷たく接する。
母は一九五七年一月八日、「イチかバチか」の日に、横須賀で生まれた。祖父は在日米兵、祖母は米兵を相手にしていたホステスだった。「大安」の日に生まれたことにちなんで、「ダイアン」というミドルネームを付けられた。母の物心が付く前に両親は離婚しており、祖父の記憶は無い。大きな怪我を何度もし、体に悪いことも一通りやって来たが、それでも健康な体を不思議に思う時に、軍人で登山が趣味だったという祖父の存在を感じるそうだ。
母が十五歳の時に、「仕事を紹介してくれる人がいるから会って来なさい」と祖母に言われて訪ねたホテルで、バスタオル一枚の男が待っていた。怯える少女に対して、幸運にも男の態度は紳士的だった。母の年齢と、なにも知らずに、親に言われるがまま訪ねてきたことを知ると、男はいくらかの金と、「いずれまた同じ目に遭うから、早く親の元から離れた方がいい」というアドバイスを与え解放した。
その足で親元から逃げだし、七年後に祖母が膵臓癌で死ぬ寸前まで、再会することはなかった。真っ当な育て方をしてくれたとはいえないが、祖母からは、「整った容姿」と、「社交性」を貰った。それに、「男勝りな性格」と、「丈夫な体」を加え、この四つを頼りに、母は東京や大阪を中心に、各地の繁華街で生活の糧を得て生きた。
とにかく何度も住む場所を変えた。職場でも土地でも、ひとつの所へ長く居ると、それなりに生活が安定してくる。それが堪らなく嫌なのだ。都会に居ると田舎が魅力的に見えて地方へ引っ越すが、結局性に合わず都会に舞い戻る。懲りずに三十七歳まで同じことを繰り返した。その間に結婚一回、離婚一回、沢山の恋愛と、三度の出産を経験した。長男である私は、小学校入学から中一の夏までの間に、七回学校を変わり、八つ年の離れた三男は二度ほど、どこかへ消えていた時期がある。
三十七の時に移り住んだ愛媛には、長く住むことになるが、そこが気に入ったからではない。容姿に衰えが出ていた母は、賃金の低い田舎町で、その土地を離れるほどお金を稼ぐことが出来なくなっていた。それでも、幸せになるチャンスは何度かあった。地元では有名なお菓子メーカーの社長の二号に収まり、資金を提供して貰いながら英会話講師のまねごとをしていた時期もあるし、下着に対して変わった嗜好を持つ以外、欠点の見当たらない外科医から激しく求婚されていた時期もある。しかしそういった人との恋愛は長く続かなかった。かわりに完済できる目処の立たない借金を抱えながら、店で寝泊まりするラーメン屋の店主や、手形が不渡りになり、「夜が明けたら死のう」と思いながら飲み歩いていた土建屋の親方とは長く付き合った。男の世話になりながら生きるのは性に合わず、それよりも、みじめな男の世話をする方が好きだった。
家に帰ると、知らないおやじが居間で飯を食っていて、そのまま住み着く。そういう環境では、子どもは早くから独立しようとするのか、兄弟の中でもっとも逞しかった次男は、中学校卒業前から友達の家を渡り歩き、必要な物は万引きで揃えるという生活を始め、家には帰らなくなった。そして順に私たち兄弟は母の元を離れていった。
会うとしんどいが、ほったらかしも、親不孝をしているようで心地が悪い。弟たちも同じで、不定期で母との関係を修復する運動が兄弟間で起こる。一番最近は、三年前に、『母の誕生日を祝う会』というのが発足された。誕生日をみんなで祝うことによって、盆も正月も親を相手にしなかったことを帳消しにしようという目論見だった。しかし、第一回目の解散後、「ハッピーな内に死んだ方がいいと思って」という理由で、母がリストカットしたことと、翌年の二回目では、三男の父親がどれだけ、「最低なクズ野郎」だったかという思い出を母が延々と語ったことで、場の空気が悪くなったことによって、今年の祝う会は開催されなかった。
今年は、誕生日を祝うシンプルな文面だけを母の携帯に送った。すると、ひとり餃子の王将で食事をしている写真が送り返されてきた。不幸が好きな彼女は、その状況がまんざらでも無さそうだった。