受講生の作品

作品集「炎心」コンクール 2019年度 エッセイ・ノンフィクション部門 最優秀賞受賞

山畑由美 さん
児童文学コース
33期生(2019年度)
性別:女性

同じ幸せを見ていた

 帰宅ラッシュの電車が駅に着くと、誰もが無言で足早に歩き出す。こつこつと響く靴音にせきたてられるように、私は小走りに改札を出て自宅へと続く坂道をくだる。

 脇の芝生広場では、子どもたちがサッカーボールを抱えて帰り仕度をしている。先には高層マンションが並び、その間から見える夕焼けは、鮮やかなオレンジ色から刻々と陰りを増していく。

 いつもの帰宅風景。皆、うつむき加減で歩き去る。冷たい西風に襟元のストールを巻き直す。

 乗降客が行き交う舗道から少し離れたところに大きなクスノキがあり、木製のべンチがひとつ置かれている。人通りも多く、眺めもあまりよくないその場所に、二十代後半と思われる青年とグレーの猫の姿を見たのは、そんな秋の夕暮れだった。

 青年は白いシャツに黒いカーディガン、黒ズボン、リュックを背負ったままベンチに座っていた。膝の上に猫が目を閉じて、じっと丸まっている。

 この周辺には地域猫が十数匹いる。あの猫も、その中の一匹だろうか。

 地域猫は、近くに住む女性たちが毎日、交代で巡回しながら世話をしており、そのかいあって皆、毛並みがよく、人懐っこい。

 陽だまりで寝そべってはのんびりあくびをし、散歩や通勤途中に話しかける人の足元にすり寄って、エサをねだる姿が愛らしい。

 しかし猫がいかに慣れているとはいえ、人のひざの上でくつろぐ姿はあまり見かけたことがない。

 よほどあの青年とは相性がいいのだな、と、ほのぼのとした気持ちで見ていた。

 それからというもの、休日の午後には決まって、青年と猫が同じベンチで静かに過ごす姿を見かけるようになった。

 暖かな陽のさす広場の一角で、膝の上から青年の顔を見上げる猫の表情は安心しきっているようだった。私はその幸せそうな風景を微笑ましく眺めていた。

 ところが、年を越して日毎に寒さが増すころ、青年の姿がはたと消えた。

(お兄さんはどうしたのだろう。仕事が忙しくて来られないのかな)

 夜は氷点下になる。同時にいなくなったグレーの猫が無事かも気になった。が、再びベンチにその姿を見ることはなかった。

 その冬一番の最低気温を記録した朝だった。

 空気が冴えわたり、空が抜けるように青い。

 駅に向かう途中、いつもの癖でベンチに目を向けた。その背もたれ部分に、何やら紙が貼られている。私は思わず駆け寄った。

『ここでいつも猫と過ごしていた者です。具合が悪そうだったので病院に連れていき、私の家で飼うことにしました。これまで可愛がってくれた皆さん、ありがとうございました』

 紙には、室内のソファーに悠然と座って、大きな目でこちらを見つめるグレーの猫の写真が添えてあった。

 私はベンチの前に立ち、メッセージを何度も読んだ。

 青年がどこに住むどんな人なのかは知る由もない。が、貼り紙の文字は、遠くからでもわかるように太くはっきりと記され、風で飛ばないようにガムテープでしっかりと貼られていた。

 鼻の奥がきゅっと痛んだのは冷たい空気のせいばかりではない。

(誠実な人にもらわれてよかったね)

 私は写真の猫に話しかけた。

 その時、私のそばに見知らぬ年配の女性が立ち止まった。ウインドブレーカーに毛糸の帽子といういで立ちを見ると、ウォーキング中のようだ。彼女は貼り紙を読むと間髪入れず、

「まあ、良かった」

とはずんだ声をあげた。

 私も思わず、

「ほんと、良かったです」

と返した。

 私たちは顔を見合わせて微笑んだ。

 日々、ただ無言で歩く通勤路で、誰かと何かを分かち合うことなどほとんどない。

 けれど、青年と猫がそこにいただけのささやかな光景を、私と同じように気にかけていた人がここにもいた。

 私の冷たく固くなっていた心の結び目が、ゆっくりとほどけていく。

 私たちは、

「それじゃあ」

とお互いに会釈すると、きらめく朝の光の中をそれぞれが向かう方へと歩き出した。

【作品集「炎心」コンクール 2019年度受賞作 講評を読む】

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