受講生の作品
受講生の作品
夕暮れに浮かびあがった橋の上には、黒い人影が行き交っていた。その合間を馬車や人力車が、忙しなく車輪の音を軋ませながら走り抜けていく。
ガス灯が薄暗く光り始めたここ日本橋は、明治維新が成って四半世紀が経っていた。
江戸生まれで桑年を迎えた平太は、生糸を扱う商社で勤めていた。その帰りに幼馴染の助吉と、贔屓にしている煮売酒屋で落ち合った。二人で飲むのは久しぶりだ。
今日は両国の川開きがあるので、橋だけではなく、どこの通りも人が溢れていた。
川開きが賑わうのはいつものことだが、時代が新しくなり、活気が出てきた世間の人波の中で、近頃は似つかわしくない連中が目に付く。横柄な態度で通りを歩く、ぴりっと詰め襟の制服を着こんだ軍人の姿だ。
自由で華やかな祭りの中で、遊び心のない彼らの制服姿は興ざめだ。
噂ではいよいよ外国での戦が近いらしい。
まともな商いをしている平太には、喜べる話ではなかった。
だから店で会った二人は、一触即発と噂されている不穏な清国との情勢について、酒を酌み交わした。
三年前に憲法を作った国は、議会を開いたが、未だに諸外国と結んだ不公平な約束は、解消されていないという。
この国がいかに手強いかを、世界に知らしめる必要があるというのだろうか。
首まで赤らめた平太は、胡坐をかいた膝元の盆から猪口を手にし、酔ってきた目を助吉に向けた。
「ところで、お前(めえ)のかみさんは、近頃お歯黒をすることがあるかい?」
「いきなり何だい? 妙なこと訊くね」
「いや、なに、禁止令からお歯黒の女がめっきり少なくなっちまっただろう。それが残念でね。うちのやつも黒くしたら、出っ歯の小せえ口が、あんがい色っぺえんだがな」
そうであれば、妻にやって貰えるように頼めばよいと助吉が言うと、江戸っ子の俺にそんな真似はできない。それよりも花街では、客の好みに応じて今も黒い歯を見せて愉しませる者がいるから、この後にでも行かないかと誘った。
生真面目な助吉は、妻がいる身で遊ぶのはもってのほかだと、平太をたしなめた。
「かたいね。かたいよ。俺はただ、歯を見に行こうと言ってるんだ」
「行ってしまったら、歯だけですまないよ。また、おかみさんに叱られるぞ」
結局、平太は助吉の忠告を聞かずに、ほろ酔いながら一人で花街に向かった。
給金の乏しい平太は、以前に職場の同僚と通っていた安上がりな梅茶女郎を訪ねた。そこに、銀という女がいた。
目鼻立ちが小作りな丸顔の小町で、地味で控えめに見えるが、笑うとふっくらした唇がほんのり開き、滑らかなお歯黒がのぞいて色っぽかった。
平太は連れられて座敷にあがった。銀に酒をついでもらいながら彼女の口元に目をやると、ついつい見とれてしまう。
唇を薄く開けながら喋るから、紅の間(はざま)よりのぞく艶かしい漆黒が、やんわりと存在をほのめかしてくる。やはりお歯黒は良い。
女子(おなご)の口元に潜む闇の濃淡を味わい、さりげなく奏でられる奥ゆかしさを感じてこそ、日本の心ではないか。
それに比べて、あの恥も外聞もない、巷の真っ白ないけ猛々しい歯はなんだ。
まったくもって白々しい。
平太は、日頃から商品の生糸を買い叩く外国人への鬱憤を晴らすように、勢いよく酒をあおった。
平太に身体を預けてきた銀は、銚子を傾けながら空いた杯に酒をついだ。
夜は平穏に過ぎていく。列強諸国と同じように争って、自分が強いと周辺に見せつけて何になるだろう。
商品を安く買い叩かれるのは腹立たしいが、拳を振り上げてまで言って聞かせようとは思わない。互いが認めあって良い取引ができれば、それでいいと思うのだが……なぁ、お銀。
ほろ酔いの中で平太が銀の仕草を愉しんでいると、ずずんっと、地鳴りのような振動が屋外から響いてきた。
思わず彼女の肩を抱きよせる。続いてはぜるような音。直ぐに甲高い風きり音が鳴って、大砲を思わせる爆音が二発轟いた。
川開きの花火だった。銀は跳ねるように肘掛欄干まで顔を出すと、戻って平太の袖を嬉しそうに引いた。
見上げた夜空には、今まで見たことが無い、赤や青や緑といった鮮やかな閃光が広がっていた。
「まったく、恐ろしいほど派手だねぇ」
砲撃の如く鳴る花火と、遠い闇から聞こえる人々の歓声に、平太は妙な胸騒ぎを覚えた。