受講生の作品
受講生の作品
私が小説家になろうと志してから何年経ったのだろう。フリーターとしての生活が定着し、いつしか何かを書こうとする熱い気持ちも冷めつつあった。
「最近はペンを握る事も無くなったなぁ」
心の中の呟きが自然に吐露してしまう程に無気力な生活が続く毎日。コンビニ弁当を片手に帰宅。スマートフォンの充電プラグを用意し、テレビのリモコンを探しながら上着を脱いで、ゆるりと晩飯の準備を進める。
定番と化した流れに身を任せるべく、鍵穴に鍵を差し込むと、指先に静電気が走った。
普段であれば、痛み以上の何かを感じる事は無いが、この日は指先の僅かな痛みを通じて、得体の知れない悪寒が全身を震わせた。
「気のせいか」
ドアを開け、電気のスイッチを入れる。白光に照らされた部屋は見慣れた景色のはずだったが、私は少しだけ違和感を覚える。
今朝まで、何も無かったはずの机の上に、ペンと書きかけの小説原稿が置かれていた。自分で置いた記憶も無く、首をかしげたまま椅子に腰を掛けた。
ペンを握り原稿に目を落とす。だが、異様な気配を察し、ふと振り向くと。
そこには黒い怪物が立っていた。
「ん?」
視線を前に戻し、もう一度振り向く。
やはり、黒い怪物が立っていた。
見間違いや幻覚の類では無い、現実だ。
筋肉質な人間型の肉体に、照り輝く球状の頭部。目鼻は無く、無数の牙が生えた巨大な口のみが怪物の顔を形成していた。
冷静になれ。心の中で三回唱えた言葉を胸に、私はいつもの日常に戻るため、床に放り置かれたテレビのリモコンに手を伸ばした瞬間、怪物が大口を開けて吠えた。
「な、なんだっ。うっ!」
怪物の咆哮が引き起こしているのか、心臓を直接刃物で抉られるような感覚が私に襲い掛かる。呼吸もままならない程の激痛に悶える中、怪物は荒い呼吸混じりに言い放った。
「小説ヲ、書ケ」
怪物の言葉に従い、不安と恐怖の中で小説の原稿を書き進めると、胸の痛みは嘘のように消え去った。
しかし、ペンを止めると、痛みが数倍の強さに変化し再び襲ってきた。消えては現れ、現れてはまた消える。激痛の波は、夜通し私の身体を痛め続けて、いつ寝る事が出来たのか、その記憶さえも消し飛ばしていた。
翌朝。今日はバイトが休みなので、のんびりスマートフォンのゲームでもしようかと考えていたが、眼前に映った仁王立ちの怪物は容赦しない。
朝食を作る余裕も、食べる時間も与えられないまま、私はペンを走らせた。
一時間ほど経過し、チラリと振り向く。
怪物は牙を小刻みに震わせながら、変わらずそこに立っていた。
結局、食事にありつけたのは五時間後。怪物が胡坐をかいている前で、醤油味のカップラーメンをすする。
コイツも何かを食うのか?
素朴な疑問を抱き、カップラーメンをもう一つ用意してみたが、怪物は反応しない。
「ぐっ、ああああああああああ」
唐突に、鋭い痛みが全身を駆け抜ける。
まだラーメンの具が残っているが、どうやら食事の時間は終わりのようだ。
怪物との奇妙極まりない同棲生活は五年以上も続き、こんな出来事もあった。
近年では珍しく雪が降っていた日の深夜、原稿用紙が無くなった事を理由に寝ようとしたところ、怪物が私の財布を手にして、布団の上に構えていた。
都合の良い事に、近所のドラッグストアでは原稿用紙を取り扱っている。
小説を書かなければ死ぬかもしれない。
いつしかそう考える自分に危機感を覚えたが、怪物によって課せられた不断の努力が実を結び、新人賞を受賞した私は小説家としての第一歩を踏み出した。
デビュー後、編集部の立てた企画の下、私は直木賞を受賞した経験を持つ小説家と対談する運びとなった。
場所は先生の自宅。緊張の面持ちで担当編集者と応接間で待機していると、ドアをノックする音が。
事前に聞かされた話によると、先生は業界随一の作品数を持ち、一日も休む事無く小説を書き続けている大変な努力家との事だ。
私のような新人が何を話せば良いのか。頭の中で様々な言葉が渦巻の如く巡り回る。
「入りますよ」
ドアが開き、先生が入って来る。
「先生。本日はよろしくお願い致します」
担当編集者が挨拶を進める中、先生の姿を見た私は吐き出す言葉を失ってしまう。
先生の背後には、私の背後に立つ怪物よりも、遥かに巨大な怪物が立っていたのだ。