受講生の作品
受講生の作品
焼針は火箸に似た長さ五〇センチ位の鉄製の針である。底辺は二センチ余りの三角錐で頂点はキリの様に鋭い。
私の郷里、鹿児島県薩摩川内市では、昭和二十五六年頃までは、焼針を打てる人がいた。
治ったかに見えた塞がった傷が、感染症を起こし「破傷風」になりかけた時、患部に焼針を打って貰い、救われた人は何人もいた。
父が肝臓が悪いと医者の診断を受けて二年は過ぎた頃、寝たきりになった父のお腹は目立って腫れてきていた。苦しそうな父の様子に、母が、診療所に往診をお願いしたのは六月末だった。帰り際、先生は母に告げた。
「十日は持たんでしょう」
その時、父は五十四歳、私が十二歳の時だった。家族が動揺する中、父は、先生の話を察したのか、驚く頼み事を母にしたようだった。
「腹に焼針打つなど聞いたことない」
と、母に相談された祖母は反対をした。
それでも父は腹の一点を指で押さえ
「この中で動いている物を外に出して、軽くなって逝きたい」
と、懇願したそうだ。
その日の真夜中、祖母と母の「ヒソヒソ」話を、私は母屋で聞いた。
「あの腹だと棺桶の蓋は閉まらんよ……それよか苦しかとば見とれんね。本人が良かごとして上げんね。どげんね……言うても先生に聞いて貰えるかどうか分からんもんね……」
祖母の声だけが聞こえていた。
翌日「不如帰」の鳴く声が切なく聞こえる夕刻、母は田に水を入れに山に行った。一人山で泣いたのか、帰った母の顔が悲しかった。
開け放した六年生の教室の内を、年寄りの用務員が覗いていた。気付いた先生は、男子の様な歩き方で入口に向い、戸を少し開けた。耳だけを外に出し、用務員の話に頷きながら視線は壁際の私に向いていた。三十人の同級生の目も私に向いた。先生は私の側に来ると
「すぐ家に帰りなさい。急いでね」
と、言った。父が亡くなったのだと私は思った。この日、父が焼針を打つ日だった。
私は二時間前に入った門を出て、堤に上がると、吐き気と、大きな目まいがした。
私は、昨夜から体調が悪かったが、父の事で毎日が多忙な母を見ると、私の事は小さな事に思え母には言えなかった。
山裾へつらなる棚田の中に、田草取りの人の麦藁帽子が、二つ、三つ見えていた。
七月の稲の葉が青々と誇って道路まで陣取って茂っている。山際に沿った堤防は稲田を守るかの様に、曲がりながら、くねりながら入江に続いている。家までは二〇分かゝる。
歩けない。私は、堤の下の水音を聞きながら、この水に浸りたい。流されて帰りたい。そう思った。道路と平面の田の畦に座わって私は田の水に足を入れた。頭から湧き出る様に汗が流れ落ちた。白い綿の肩掛の「カバン」を枕に、雲の無い夏の空に、私は顔を照らした。
気を失ったのか?眠ったのか?私は意識を失くした。
夢を見た。暗い夢だった。私は海岸に流され、渚に立っていた。暗い沖の方から、小舟に乗った人影が近ずいて来た。父だった。
父は私に向いて手招きをし、尚も近ずくと無言で手を差し出した。私も手を出し、足を前に進めると、深みに沈みそうになり手を引っ込めると目が覚めた。
父は生きていた。夢の怯えは残ったままで予知夢に思えた。父が死ぬと私も死ぬ、そんな気がしていた。
家は人で溢れていて、夏は塞がれた炉の板が剥がされ、炉の中に「ふいご」が置いてあり炭の臭いが外まで流れていた。私は母屋の前の土間に行った。姉達の間を抜け一番前に行った。障子が開いていて「ふいご」の中の焼針が三本見え、針師の怖い顔も見えた。
父は、黄色い油紙を敷いた布団の上で裸で寝かされていた。父の腫れ上がった腹には、黒い丸い標が二つ付いていた。
祖母と母は、父の右左の足を押さえていて、二人の側にカットされた白いサラシの布が高く積んであった。
袖の短い、柔道着を着た大きな腕の針師が突然「ふいご」に忙しく風を送った「ふいご」は「ヒーフー」と鳴いて、オレンジ色の焼針が一段と鮮かになると、中腰になった針師は父の腹の標に焼針を打ち込んだ。
「ジュー」と小さく音を出し、煙を出して、父の腹に二つの穴が開いた。それは一瞬の技だった。私は目を見開いて全てを観た。
二つの穴から臭いと共に膿が噴き出し父の腹に落ちた。カットサラシは役に立たず、姉達が大きな洗面器で受けた。針師は優しい顔になり、父の腹を揉むように絞ると、大きく腫れていた父の腹は萎んでいった。太いこよりが二つの腹の穴で何度も出し入れされた。
後、父は十年元気に生きた。あの日の、焼針の一瞬の技が、今も私の記憶に残っている。