受講生の作品

作品集「炎心」コンクール 2020年度 フィクション部門 奨励賞受賞

天ヶ瀬 朱美 さん
創作・小説コース
33期生(2019年度)
性別:女性

たらちね

 背中をしたたかに土壁に打ちつけ、みちは顔を歪めてうずくまった。痛みをこらえ頭をあげると、髷が崩れ、肩で息をする母・お政の姿が目に入った。薄暗い家のなかで、二人の吐く息だけが白い。立ち上がろうとしたら逆上するお政に頬を打たれ、幼いみちの体は耐えきれずに倒れ込んだ。駆けつけた長屋の住人たちの中に父の姿はなく、止めようとする皆にお政が吠える。

「折檻やない、しつけや!」

 押さえつけられた体を振りほどき、お政はみちに手を伸ばす。煌々と光る目が迫る……。

 自分の悲鳴に驚いて、みちは飛び起きた。荒い呼吸を調えて辺りを見回すと、義母の美登利の寝息が聞こえてくる。障子越しの月明かりが、規則正しく上下する布団を淡く照らしている。みちは首元の汗を拭い、静かに縁側に出た。闇に咲く花々の凛とした佇まいに心が落ち着き、ようやく安堵の息を洩らす。

――夢の原因はわかっている。昨日の女だ。

 今年の夏は尋常でない暑さで病みつく人が多かった。季節が秋へ移る頃、それまで元気だった美登利が見る間に体調を崩して床についた。それから道修町の神農さんへの参詣がみちの日課になった。昨日、気晴らしにと、みちは高麗橋へ足を延ばして二匹の金魚を購い、その帰り道になにわ橋の袂で一人の老女が目に留まった。垢じみた単衣の着物に、真っ黒な素足を古茣蓙の上で不器用に揃えて俯いている。往来人が皿に銭を投げ入れると傍らの三味線を引き寄せ、その時だけは頭を上げてひとふし爪弾くことを繰り返していた。

 みちが前を通りかかった時、若旦那風の男が新たに銭を投げ入れた。運悪くその銭は老女の顔に当たって転がった。瞼を閉じたまま、手探りで銭を探す姿に、みちは老女が盲目らしいと気が付いた。銭を皿に入れてやると、礼を述べようと顔を向けた老女を見て、息が止まった。お政だった。

 みちは身震いをして胸元をかきあわせる。見上げると、冷たい夜気に浮かぶ月は、もうすぐ満ちようとしている。

 あの後、持ち帰った金魚を白磁の鉢に移すと、美登利は珍しく身体を起こした。

「おみちとも金魚がご縁やったな」

 美登利の言葉にみちは笑顔で頷く。

 神農祭で投げ出された金魚を拾い上げたみちが、通りがかった美登利に助けを求めたのが二人の縁だった。みちを気に入った美登利はそのまま家に連れて帰り、自らが商う小間物屋を手伝わせ、数年後、息子と娶せた。

「あの時の金魚、綺麗でした」

 みちの言葉に美登利が頷き、二人は鉢の中を覗き込む。秋の日差しを受けて戯れる二匹の金魚の、鮮やかな赤が目に沁みる。

「うちに来てくれて、おおきに」

 美登利がぽつりと呟く。

 そんな、と答えながら、みちは三味線の音が耳から離れなかった。

 二度目の銭が皿に落ちる音を聞き、お政は怪訝な顔をした。みちは無言で巾着を握り締めている。あれから毎日、みちはここを訪れていた。お政は酔狂な馴染みができたと感じていたようだが、今はひとふし終わって再び投げ入れられた銭の意味を図りかねているらしい。やがて、お政は静かにバチを打ち始め、みちは小さく声をあげた。子守唄だ。

「おみち。おみちやないか」

 野太い声に振り返ると、人込みの向こうに夫の源七がいる。かたり、と三味線が止んだ。

「あんた、みちっていうのかい」

 慌ててその場を離れようとするみちに、お政は言葉を投げつける。

「また逃げるんか」

「違う。逃げてなんか……」

 立ち止まり、お政を見つめるみちの呼吸が早くなり、あの日の出来事が脳裏に蘇る。

 ――折檻やない、しつけや!

 あの日、その言葉に怒りを爆発させたみちは、お政に夢中で飛びかかった。足元を掬われたお政が竃の上に倒れ込む。目も眩むような赤い血が飛び散るのを見て、みちは大人たちのあいだをすり抜け外へと駆け出した。駆け出して、走り続けて、今、ここにいる。

「この目が見えへんのは、あの傷のせいや」

 恫喝するお政の声にみちは動けない。するとお政は一転して語気を和らげる。

「せやけど恨んでへん。我が子やもん。よう会いに来てくれたなあ」

 猫なで声でみちに向かい両手を広げるお政の心にあるものが、菩薩の慈悲なのか、怪物の支配欲なのか、みちにはわからなかった。

 恐怖にかられて後ずさり、転んだ目の先に石がある。この石でとどめを刺せるか。刺すべきだろうか。美登利の顔が浮かぶ。みちは、石を掴んで握りしめる。遠くで源七が呼ぶ声を聞きながら、だが、手の震えを抑えることができなかった。

作品種類
心斎橋大学ラジオシアター放送作
作品集「炎心」コンクール受賞作
作詞修了作品コンクール
公募受賞作品
修了制作 最優秀賞受賞作品
作品ジャンル
脚本(ラジオ)
作詞
ノンフィクション
小説
エッセイ
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