受講生の作品

作品集「炎心」コンクール 2020年度 フィクション部門 優秀賞受賞

石井 映 さん
大学院
32期生(2018年度)
性別:男性

娘へ

 ―天音。今、家に帰ったところだ。晴れやかな花嫁衣装を纏った君は本当に綺麗だった。だが、君の「お帰りなさい」という声が聞こえないことの方が、君を嫁に出してしまったという事実を、より強く感じさせるよ。

 賑やかだったけれども、騒ぎすぎず、落ち着いた良い結婚式だった。お父さんの世代は、よく新郎の友人が羽目を外し過ぎて、新婦の親族が青筋を立てたりしたものだが、今はそういう事は殆ど無いと式場の係の人から聞いた。これもひとつの時代の流れなんだろう。

 靖君もしっかりしていて頼もしかった。彼の友人達も皆真面目そうで良い若者たちだ。「その人を知りたければ、その人の本棚と友人を見ろ」という私の恩師の言葉を思い出したよ。社会人になると、学生時代の友人とは疎遠になりがちだ。仕事が忙しい、子供の世話がかかる、連絡を取らない理由はいくらでも出てくるが、君も靖君も、古い友人とは付き合いを大切にして欲しい。これは親というよりは社会人の先輩としてのアドバイスだ。

 これからのお父さんか? 僕もあと二年で定年だ。まだ誰にも言っていないが、やってみたいことがある。僕が社会人になった頃、有名な小説家が、インドのデリーからポルトガルのロカ岬まで、乗合バスだけで行くという本がベストセラーになった。

 これを真似て、飛行機を使わないでユーラシア大陸横断に挑戦してみようと思っている。船で日本海を渡り、シベリア鉄道に乗ってイルーツクへ。そこから南下してモンゴル、中国を渡り、イラン・トルコから東欧を抜けて、リスボンへ、という工程だ。帰りに本屋で世界の白地図を買ってきた。これから毎晩、晩酌をしながら工程を詰めていこうと考えている。大丈夫。体力が落ちてきたことは自覚している。無理はしないよ。

 庭で鈴虫が鳴いている。いつの間にか、蝉はその座を明け渡したようだ。還暦を過ぎた頃から、虫の鳴き声、風のささやき、葉擦れの音といった自然の音色が耳ではなく、心に届くようになった。そういった音がすると、耳の聞こえない母さんが、微笑みながら目を閉じた光景を思い出す。あの時は何故、と不思議に思ったが、今は音以外の何かがお母さんの心に届いたのだろうと思うようになった。

 先月、僕の同期が長い闘病の末に亡くなった。とても残念なことだ。我が身を考えれば、無事に今日が終わってくれたので、これから何があっても、しっかりと受け止められる覚悟が出来た。

 ただひとつの心残りは母さんと一緒にこの日を迎えられなかった事だ。確かに膵臓癌は発見が難しいとはいえ、毎年受診した人間ドックに様々なオプションを付けておけば違う結果があったのでは、と悔やまない日はない。

 だが時の流れとは不思議なもので、最近、母さんのことは、闘病の頃よりも、元気だった時を思い起こすことが多くなった。君の手を引いてのハイキングに動物園。カメラを手にしてのお遊戯会に、趣味だった陶芸‥‥‥。時の流れは心の傷を癒す、というのは本当のことだ。

 母さんは、僕のプロポーズを一回断った。障碍が子供に遺伝するのを恐れていたからだ。科学的に有り得ないと説得して一緒になったが、母さんの不安は消えなかった。神様が音を授けてくれますように、との祈りを込めた君の名前を考えたのも母さんだ。

 君が生まれてから毎日、ベビーベットに寝ている君の耳元で、母さんは手を叩き続けた。そして、生後一ヶ月くらいの時、君は手拍子に反応し、その音に振り向いて微笑んだ。

 その時の母さんを忘れることができない。口を当てた手の上に大粒の涙が落ちた。暫くの間、肩を震わせ、そして両手で顔を覆った。長い時間が経ったように記憶している。やがて両手を顔から話した時の母さんは、喜びに満ち溢れていた。

 バイト代をつぎ込んだディズニーランドのデートよりも、意を決したプロポーズを受けてくれた時よりも、遥かに、いや比べ物にならないくらいに、あの時の母さんは幸せそうだった。正直に言うと、赤ん坊の君に少し嫉妬したよ。その日から、君が物心つくまでの毎日、母さんは君の死角に立ち、手をパンと叩き、そして振り向く君の頭を慈しみながら撫でるのが日課になった。今日、君は母さんに何も親孝行をしてあげられなかったと言ったが、そんなことは決してない。君は素晴らしい親孝行をしてくれた。そして元気で心優しい娘に育ってくれた。本当に感謝しているよ。これが言いたくて慣れないペンを取った。

 夜も更けた。そろそろ寝るとしよう。君は二次会、いや三次会の最中かな。今日は羽目をはずすのは仕方ないが、明日からは体を大切にする生活に戻るように。説教で終わるのは年寄りの良くないところだな。

 ―おやすみなさい。今日から、この言葉が独り言になることが、少し寂しいよ。

作品種類
心斎橋大学ラジオシアター放送作
作品集「炎心」コンクール受賞作
作詞修了作品コンクール
公募受賞作品
修了制作 最優秀賞受賞作品
作品ジャンル
脚本(ラジオ)
作詞
ノンフィクション
小説
エッセイ
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