受講生の作品
受講生の作品
漆黒の夜、渓谷にまたドスッと音がした。
「どうだ、大丈夫か」
「第一地点で捕獲しています」
「よくやった。すぐに戻ってきて良かった」
まばゆい明かりに美緒は目を覚ました。真っ白い温かな柔らかい布団の上に寝ている。なんという心地よさだろう。
「お目覚めどすか」
きっちりと着物を着た、女将と呼ぶにふさわしい妖艶な女性が衝立越しに座っている。その前にはご馳走が並べられ、いくつもの七輪に火が入れられた。伊勢エビや蟹、牛フィレ肉やぼたん鍋、鮮やかな手つきで捌かれる。
「お腹が空いては何もできしまへん。こちらにいらしておくれやす」
美緒は呆然としながら、記憶を辿った。
「ここはどこでしょう。京都ですか。それとも、天国とやらに着いたのでしょうか」
女将は黙々と仕上げに専念した。
「お刺身から食べておくれやす。ブリも脂がのって、旬の美味しさよって」
自分は深い渓谷に身を投げたはず。もう人生終わったんや。何日も食べていない。夢でも美味しいものが食べられるなら最期の幸せや。美緒は言われるままに刺身に手を付けた。
「美味しい。こんなに美味しいブリを食べたのは、生まれて初めてかもしれません」
女将はようやく目を細めた。
「ここは『天途城』言いまして、天国の入り口。三途の川を渡るのにも体力要りますのや。下界ではいろいろ苦労しはりましたんやろ」
女将の言葉に、美緒も我に返った。
「中学生の男の子二人遺してきました。あの子らこれから受験もあるのに。コロナの前から朝はパン屋、昼はスーパーのレジ、夜はファミレスで働いていましたが、コロナの影響でどこも客が入らんようになって。この頃は自宅待機になって、支援金も今月で打ち切られたら、ガスも水道も払えんのです。ちょうど日雇いの現場に来て、しんどうてしんどうて、私がおらん方があの子達の支援もあるのやないかと思うて、飛込んでしまいました」
女将は黙って聴いていた。
「私だけこんなに美味しいものを食べて……あの子らは何か食べたやろうか……もうあの子らにも逢えん……私はなんてことを……」
「後悔してはるのどすか」
箸の止まった美緒に、女将は語りかけた。
「もう遅いどすな。せめて三途の川を渡る体力はつけはらんと、遺されたお子達も迷惑どす。食べはったら、奥の温泉で身を清めてきておくれやす」
子ども達に迷惑がかかると言われて、美緒は涙でくしゃくしゃになりながら、必死で食べた。これ以上、迷惑はかけられない。
建物の奥に、露天風呂があった。漆黒の空に無数の星が瞬く。気の遠くなるような静けさの中で、美緒は人生を振り返った。
「こんなにゆっくりしたの、何十年ぶりやろ。夫のDVが酷くて離婚して、女手一つで男の子二人、何とか食べさせて上の学校にやりたかったけど、ほんまに……ごめんなあ……」
美緒が上がると、着てきた服が丁寧に畳んであった。洗濯されてまだ温かく、いい匂いさえした。部屋へ戻ると、女将がきっちりと座っていた。料理が片付けられた卓袱台の上には、分厚い封筒があった。
「三百万あります。これ持って行きなはれ」
言葉を失った美緒に、女将は続けた。
「あんたは死にぞこないや。まして子ども二人も遺してきてはる。まだ死なれしまへん。これだけあったら一息はつけますやろ。息子さん達に美味しいものでも食べさせたって。『天途城』のことは、誰にも言うたらあきまへんで。その代わり、どうしても困ったことがあったら、あたしに電話しておくれやす」
そう言って女将は、美緒に携帯電話番号だけを渡した。どこからか男達が現れ、美緒を下界の然るべき場所へ送り届けた。
「総理、機密費と予備費の内訳を教えて下さい。この緊急時に何にお使いなのですか」
「お答え出来ません」
仏頂面の総理は、今日も国会で責められた。
「瀬戸際対策と仰ればいいじゃありませんか」
首相官邸で、側近は悔しそうに言った。
「防衛大臣もぼやいていましたよ。闇夜の渓谷に網を張って自殺者を救出するなんて、訓練になり過ぎるって。全国の女将達は、千両役者顔負けのいい仕事しているそうですがね」
「追い詰められた人間は、何をする気力も無くなる。私も何回あったことか。地獄を見た人間は必ず這い上がる。地獄に仏の人助けや」
総理は遠くを見て、静かに笑った。
女将達の携帯が鳴ったのは、数年から数十年後であった。その一部でもお金を返したい、御礼を言いたいというものであった。
十年後、機密費や予備費が明らかになった時、二人の少年は立派な大人になっていた。