受講生の作品

作品集「炎心」コンクール 2020年度 フィクション部門 奨励賞受賞

中村 久子 さん
文章・エッセイコース
34期生(2020年度)
性別:女性

僕がここにいる理由

 ばあちゃんの可愛がっていた猫を押さえつけて、墨を体の半面に塗った。そこにカステラの包み紙の裏側を押し当てた。ばあちゃんの六五歳の誕生日プレゼントだ。寝てばかりの小さな老猫とはいえかなり嫌がったので、それは五歳児には大変な作業だった。

 ばあちゃんは僕の父の母親で、お化粧を全くしないし、ごま塩の髪を一つに結わえいつもズボンを履いていたから、後ろから見るとおじさんみたいだった。だけど笑うと柔らかい蒲鉾みたいな大きな目がとても綺麗なのだ。空の雲を見て、これからの天気を当てる天才でもあった。

 僕の家は海からすぐだった。台所でカップラーメンにお湯を注いで、蓋を押さえながら浜辺に行ったときにちょうどよく出来上がっていたから、つまり徒歩三分だ。父は釣りが大好きで、よく釣った魚に墨を塗り、魚拓を作っては嬉しそうに皆に見せていた。褒められると上機嫌でお酒を飲む。自分の好きな生き物の姿を紙に写すのが嬉しい事なのだと思ったから、父のやっていた通りに真似をしたのだった。

 半身が真っ黒になった猫が、作業場にしている納屋を飛び出し、母屋に駆け込んで走り回るのを見た母は腰を抜かした。悲鳴に近い声をあげ僕を睨むが、一刻も早く墨まみれの猫を捕獲し、部屋中に付いた黒い筋を拭き取る以外その時の彼女に選択肢はなかった。

 猫を塗り上げた結果がこれほどの惨事を引き起こすと想像していなかった僕は、血の気が引いた。母が掃除を済ませたら次はどうなるのか。頭が真っ白になったとき、騒ぎを聞きつけたばあちゃんが奥の部屋から顔を出し、裏紙をぶら下げて突っ立つ僕を見た。

「タカ、どないしたん」

 混乱した僕の顔から手にしている紙に視線を落とす。丸めてリボンをかけてプレゼントする計画もすっかり忘れ、僕はそれをばあちゃんに差し出した。

「お誕生日おめでとう」

と言ったとたん涙が出た。

 その黒い模様が彼女の猫のものであると理解したばあちゃんは、墨だらけの僕の手を握り、大きな蒲鉾みたいな目を一層細め、ありがとうと言った。そして壁にまだ乾かない「猫拓」を貼り、素晴らしいと言った。その後も、それを人に見せては自慢げに同じ話を繰り返し、そのたびに僕は嬉しくなった。

 小学一年生の夏、僕の描いた水墨画が役場の夏休み絵画展で佳作を取った。自由に絵を一枚という宿題で、僕の作品だけが白黒だった。台所に立つ母の後ろ姿の足の部分と、

 その足元にうずくまる猫と、床に転がるスイカ。今思えば子供の視点らしい面白い構図ではある。一年生が水墨画(と呼んでいいなら)を出品した珍しさからか褒められ、そして一方で、大人が狙って六歳児に墨と筆を持たせたのだと噂された。僕は猫を塗って以来、筆先から流れ出る墨の色の虜になり、ばあちゃんが買ってくれた僕専用の筆と墨汁で、暇さえあれば裏紙に落書きをしていたから、夏休みの宿題は普通絵の具を使うものと意識していなかっただけなのだ。

「あれまだ役場に貼ってあるな。ほんまにお前が描いたんか?」

 父が、夕食の味噌汁をすすりながら僕に聞いた。その瞬間、ばあちゃんが立ち上がって、目の前の父の頭を殴った。

「タカに謝り。失礼や」

 先生や友達にこの絵は誰に習ったか、とか聞かれるたび、僕は悲しい気持ちになって鼻水が出たのだけれど、この時はばあちゃんの声にびっくりしただけだった。父ちゃんが僕に謝ったかは覚えていない。

 僕は今、書家と名乗って仕事をしている。墨で風景と字を組み合わせたような絵を描いたり、介護施設や幼稚園で書道を教えたりしている。香港の友人に彼の名前と似顔絵を墨で描いてあげたら、彼はそれをTシャツにプリントした。評判になり、二人でネット販売の会社を立ち上げ、そちらも順調だ。

 今日のばあちゃんのささやかな葬式では、遺影の横に僕の描いた墨絵を飾ってもらった。棺には、もうボロボロの汚い紙でしかない猫拓を入れ、ばあちゃんと一緒に空に戻した。

 もうすぐ今年が終わる。

 頰に何かが触れた。見上げると、突き抜けるように青い空から、キラキラと舞い降りてくるのは雪だ。顔を真上に向ける。音もなくチラチラと軽やかに舞う風花を、まばたきせずに見上げていたけれど、その時間はすぐに終わってしまった。頰に手を触れてみる。乾いている。でも確かに雪は降っていた。

 真っ青な空。足元に目をやる。地面も濡れていない。でも確かに雪は降っていたんだ。君は信じてくれるかい。とても綺麗だったんだよ。

作品種類
心斎橋大学ラジオシアター放送作
作品集「炎心」コンクール受賞作
作詞修了作品コンクール
公募受賞作品
修了制作 最優秀賞受賞作品
作品ジャンル
脚本(ラジオ)
作詞
ノンフィクション
小説
エッセイ
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