受講生の作品
受講生の作品
なぜか、この頃、百二歳で他界したおばあちゃんが夢に出てくる。
色白で長身の祖母の名は「いとゑ」。両親は、裁縫上手であって欲しいと名付けたらしい。近所の誰もが、「イト」と愛称で呼んだ。
その名の通り、夏は浴衣、冬になると甚平づくり。学校の椅子に敷く小さな座布団も恰好よく仕上げた。廃棄寸前のタオルを繕った雑巾は、常時ストック。私の両腕に、幾重にも巻き付けた木綿糸や毛糸を球形にしながら、巻き取る技も素早い。膝に大穴が開いたズボンの手直しも見事。古く重く硬くなった綿花を打ち直し、新品のように仕上げたお客さん布団はフカフカ。真新しい匂いに、私は何回も鼻を擦りつけた。どれもこれも、忘れられない祖母との「糸物語」である。
確か、私が小学校三~四年生頃の夏休みだったと記憶している。母親に向かって、「工作の宿題まだできてへん! どうすんの?」声高に、捨て台詞を放った。
「何でもエエやろ」
母は、背を向けたまま黙り込む。
毎日、昼食後には、こういうやり取りが続いた。傍にいた祖母は、そろそろ、「はたき」がくたびれてきたと、使用期限切れのような薄汚れた掃除道具を振り回した。
纏わりついたホコリが散乱する。この仕草から、夏休みの宿題の工作も、はたきにしたらどうかという提案が読み取れた。
すぐに、祖母に視線を合わせた。
「はたきなんか、あかん、カッコ悪いわ」
顎を突き出し、反抗の態度をとった。
反発した理由を聞かないまま祖母は、はたきづくりを開始した。連日、夏休みの宿題のことで口喧嘩をする母子の様子が耐え切れなかったのであろう。一つだけ残った工作に、苦戦しているのを見かね、急遽、参戦してきたのだ。
近くの藪に生えている細長い青々とした竹を調達し、五十㎝位に切った。これで、はたきの柄になる分はできた。ここまで進むと、
「はたきなんか、あかん」
と、二度といえなくなってしまった。
祖母は、和服づくりで残った布切れを、箪笥の底から幾つか取り出した。竹製の柄の先に、付ける細長い布として、活用するためである。ハギレの反物に、鋏を入れて、短冊布を数十枚作った。頑丈な糸と針で、器用にハギレを縫い合わせている様子をのぞき込む。中古のハギレは、一時間程で、新品のはたきに蘇った。
私は、早速、柄を持ち、サッサと叩くと、箪笥の中に入れてあるナフタリン臭にむせた。渋い色合いに混じり込んだ鮮やかな赤色が目立つはたきは、手触りもよく、障子の桟や置物のホコリを払うには、十分すぎる逸品だった。
しかし、はたきは、どこの家にもあるような安価な代物である。夏休みの宿題の工作として、展示する価値はないと判断してしまっている私は、それを学校に持って行きたいとは思わなかった。
夏休みが終わった。「夏の友」等と一緒に、祖母が作ったはたきを、渋々ながらに学校に持って行く。製作者名を書いた紙片を先生が、はたきに貼り付けた。私は、名札が見えないように隠しながら、教室後方の棚に置く。
「掃除道具のはたきって、工作か?」
誰とはなしに、いわれるに違いないと思い込んでいた。
ところが、そのような声は、耳に入ってこなかった。うつむき、下目遣いに、周囲の友達の気配を感じ取りながら、大きく一息ついた。苦戦した宿題は、やっと終わったと感じた。
祖母は、特別養護老人ホームに入所してから、特に編物を好み、肩にかけるショールを、水色の毛糸で何枚も編み上げた。冬季は、それを身に着け、おめかしを楽しむ。
百歳のお誕生日には、時の内閣総理大臣から、長寿を称える賞状と記念品が届いた。今でも、仏間には、贈り物と一緒にショールを纏って、記念撮影している写真が立てかけてある。
糸と針を巧みに操り、逸品のはたきに仕上げた裁縫上手の祖母と私は同年代になった。八歳と四歳になった孫もいる。
これから先、孫たちも親子で夏休みの宿題の工作を何にするか、悩むこともあるだろう。その時、きっと、私も同じような世話をやく気がしてならない。
「はたきなんか、あかん」
一喝した非礼を詫びるため、写真に向き合い、孫の成長を報告しようと思う。
そして、一度も「はたき」を見たことも、使用したこともない孫たちに、「糸物語」を話す中で、半世紀前に口にすることができなかった厚い気持ちを、声に出して伝えたい。
「ありがとう、ありがとう」
いつか、夢の中で、裁縫をしている割烹着姿のおばあちゃんに逢える気がする。