受講生の作品
受講生の作品
あ、咲いてる。
私は、駅前の小さな花壇の前で足を止めた。
「M地区老人会」と書かれた手作り看板の前で、複数の水仙が凛と背を伸ばしている。
「水仙は春を告げる花や」と亡き母はよく言ってたっけ。私はゆっくり顔をあげて、実家へ続く道を急ぐ。
古稀を越えた父が「引っ越しするわ」と言い出したのは、まだ暑い盛りだった。三人で暮らした古い家で、母亡き後も父は一人、住み続けていた。
「引っ越すって、どこへ?」
「ここ。もう手付金払ったし」
父が差し出したパンフレットには青い海と青い空が広がり、その上に「サービス付き高齢者分譲マンション」の文字が躍っていた。
「何これ? ここどこ? 近所ちゃうやん」
「富士山も見えんねんて。ええやろ」
若いころから、あれこれ職を変えてきた父だった。たこ焼き屋に雑貨屋、植木屋に便利屋。発明家だったこともある。かなり変わった人ではあるが人付き合いは悪くなく、老人会デビューの後は、ごみ拾いや駅前の花壇の管理などを率先してやっていたはずだ。
「もしかして、ご近所トラブルでもあるん?」
「ないない」
「まさか、好きな人でもできたん?」
「ないない」
「ほんなら、だまされてるんちゃうん?」
「ないない。ほんま、ない」
父はニヤニヤしている。
「ほな、この家どうするん?」
「つぶして更地にするわ。古家ついとったら売れへんねんて。お前も、もう帰って来うへんやろ? 転勤あるかもて言うてたし」
すぐには返事ができなかった。会社が海外進出を企画している。できれば手を上げてみたい。でも、父が心配でまだ迷っていた。
大学入学と同時に家を出た。そのまま就職し、一人暮らし歴はすでに実家暮らしよりも長くなっている。仕事に忙殺され、そんなに遠いわけでもないのに、盆と正月、後は出張ついでに寄るくらいしか帰省もできていない。
「でも、なんでこんな遠くなん。高齢者マンションなんて、この辺りでもあるやん」
「まあ、心機一転やな」
そう笑う父を見ながら、これは一人娘に老後の負担をかけないようにという父の終活なのだと思い至って、心が沈んだ。
それから半年。今日は実家の解体の日だ。
今にも雪が降り出しそうな空の下、無人になった家は、死んだみたいに佇んでいる。
「全部、専門の友達に頼んであるから、立ち会わんでもええさかい」と父は言ったけど、やっぱり来てしまった。
職場で「それって、理想の実家じまいですよ。羨ましい」
と言われた。そうだと思う一方で、「帰る場所」がなくなることが怖かった。
門の前でウロウロしていると、重機を乗せた大きなトラックが停まる。
「あれ? あんた瀬野さんの娘さん?」
助手席の窓が開いて、威勢のいい声がした。
「そうですけど」
「大当たりや。きっと娘が来ると思うわて、慎さん、言うとった」
「え?」
「まだ時間あるさかい、最後に家の中、好きなだけ見てきたらええで」
言われて門をくぐる。庭にはもう何も咲いていない。引っ越しを決めて、父は一番に水仙を掘り起こした。母が好きだった花を、老人会が管理する駅前の花壇に植え替えた。
玄関のカギを開けて、中に入る。
ガランとしたダイニングの壁はところどころが黒ずみ、
父の、母の、そして私の何十年もの暮らしがしみ込みこんでいる。
父はそれらも全部捨てて、人生の「終の始まり」を歩もうとしている。それが切ない。
なんでも一人で勝手に決めちゃって。
ふと視線を落とすと、床の上に一冊の冊子があった。「ドローン」の分厚いカタログ。
何これ……。
「新しいマンション、ドローンができるんやてな。ドローン使ってマンションのベランダ宅配屋するのが夢やって。この土地売ったお金で、最新のを買うって言うてたで」
さっきの人が、ズカズカと入ってきた。
「へ? 引っ越しって終活じゃないの」
「終活なわけあるかいな。慎さん、まだまだ人生攻めとるって。もう一花も二花も咲かせるつもり満々やろ」
ガハハと豪快に笑う父の友を見ながら、凝り固まった肩から力が抜けていく。
そうだったのか。それならとても父らしい。そう思ったら、笑えてきた。
だったら私も新しいところで咲かなくちゃ。
駅前の水仙みたいに。背筋を伸ばして。