受講生の作品
受講生の作品
その赤児は境内の大木の陰でぼろにくるまれ、大きな泣き声を上げていた。
「これは何としたことじゃ」
脇の庫裡から出てきた善安和尚は素早く乳飲み子を抱き上げ、その顔を覗き込んだ。
「おや、この子は確か……」
彼は辺りを見回したが誰もおらず、何やら書き付けた紙片が紛れているのが目に付いた。
『どうかこの子をお頼みします。まだ名はつけておりませぬが、男の子にござります』
善安は少し考えこんでから、銀杏の梢を見上げて言った。
「ならば慈平と致そう。慈しみ深く、心平らかなれという願いを込めてな」
おぉよしよし、と慣れた手つきで子をあやしながら彼は薬師堂の方にいちべつをくれてから庫裡の内へと消えていった。
「慈平、お薬師様じゃ」
善安和尚がゆっくりと厨子の扉を開けた。
「あっ!」
慈平は呆気に取られた。
「優しいお顔であろう。病を治して下される有難いみ仏ぞ。ご挨拶せよ」
和尚が促すと少年は素直に合掌してから、ふと思ったことを口にした。
「この仏さま、一人で淋しくねえのかのう」
善安の応えは不思議なものだった。
「お前は賢い子じゃな。だがもしかすると、み仏は待っておられるのかも知れぬ」
誰を、何を、と問う慈平の頭をそっと撫で和尚は黙って微笑んだ。
それから十年、薬師仏に魅せられた少年は十六の若者に成長し、善安和尚の力添えで東大寺の仏師に弟子入りを認められた。そこは思いのほか過酷な世界だったが、厳しい修業に堪えて精進し続けるうちに彼は才能を開花させ、兄弟子たちを追い抜いた。入門して七年も経つと、師匠の才円に呼ばれ命じられた。
「不動明王を彫れ。先ずは一尺の雛形をな」
「は、はい。かしこまりました」
けれど慈平は当惑した。初めて忿怒相の仏を手掛けねばならなくなったのである。
(俺が彫りたいのは柔和な顔の仏さまだ)
幼い日の思い出が胸に迫って彼は悩んだが
(お不動様は大日如来様の化身だ。ならばその表情であっても良いのではないか)
そう思い定めると鑿(のみ)を握る手に力が込もった。程なくして完成したのは穏やかで慈悲深い面相の不動明王である。ところが
「一体、どういうつもりじゃ!」
激怒した才円はそれこそ忿怒の形相で弟子を殴りつけ、その手から明王を取り上げた。
(俺は破門か)
慈平はその晩、工房を去った。村へ戻ると訳を聞いた善安和尚はそうかと呟いただけで、何事もなかったかのように迎えてくれた。慈平は相変わらず精進の日々を送ったが、暫くすると使いの者が訪ねてきた。
「師匠が病の身で逢いたがっておられます」
駆けつけてみると、あれ程精悍だった才円が蒼白い顔で布団の上に起き上がっていた。
「詫びねばならぬことがある」
彼は弱々しい声で言った。
「わしは、お前の、実の父親じゃ。」
肩で息をしながら才円は語り出した。
「薬師仏を彫り上げたものの、わしは自信を失くしていた。その上産後の肥立ちの悪かったお前の母親まで失い、役目も終えずにわしはお前を置いて逃げ出した。そして奈良仏師の門を叩き、一から修業し直した。やがて今の地位に上り詰めた時、善安様が手紙を寄越して幼いお前が見事な木彫りの十二支をこしらえたと教えて下された」
(自分は今、何を聞いているのだ)
がくぜんとして慈平は自問した。すると才円はあの不動明王を脇にいた弟子に持ってこさせ、しっかりした口調になって更に続けた。
「儀軌(ぎき)には背くが、み仏の本願には叶っておるゆえ持仏として持っておくがよい」
慈平の心に光が射し二人は言葉を交わした。
「お許し願えるのでしょうか?」
「破門してはおらぬ。お前の鑿には迷いがない。その腕でわしの代わりに日光と月光、二体の菩薩を彫れ。脇侍として村の薬師堂に奉るのじゃ」
『待っておられるのかも知れぬ』
慈平の耳に善安の言葉が甦った。
(あれはそういう意味だったのか)
彼は才円に寄り添いその手を取った。
「有難くお引き受け致します、父上」
「永い間、本当に済まなかった」
ぽたぽたとこぼれ落ちるものが膝を濡らすのも構わず二人は何時までも泣いていた。
その傍らで父子をじっと見守っていたのはあの慈悲の不動に他ならない。