受講生の作品
受講生の作品
まずい、あの御仁や ― 。
雨がしとしと振る梅雨時の夕刻、大阪府庁の便所の戸から廊下に顔を出した知事の西村捨三(すてぞう)は心中唸った。絶対に顔を合わせたくない人物が数間(すうけん)先から歩いてくるではないか。
慌てて戸を閉め便所に籠った捨三は心臓が打つのを感じた。その人物は捨三が知事着任以来三カ月間避け続けてきた職員で、名を林忠崇(ただたか)という。府庁の学務課に属する月給僅か十二円の準判任官つまり下級吏員である。
捨三はその遥か高みに立つ年俸三千円の知事であり、年齢で言っても数えで四十七歳の捨三は忠崇の五つ上であって、捨三が忠崇を畏れる謂われは、本来、ない。
だが捨三は忠崇に会えない。会うのが怖い。
捨三は二十一年前の戊辰の年の、磐城新田峠の戦を思い起こした。
明治元年六月、北上する官軍とこれを食い止めようとする旧幕府軍が新田峠で衝突した。
そのとき、官軍の縦隊の後方に捨三がいた。
捨三は別方面の官軍の参謀で、この日は伝令として来ていたのだが、どうしても観戦したく、部隊に随伴していたのである。
捨三は彦根藩士であった。彦根藩といえば譜代筆頭格であり、有事に際して率先して徳川を護る役を担ってきた。捨三も幼少期より徳川への忠義を骨の髄まで教えられ育った。
が、彦根藩は真っ先に新政府に恭順した。百八十石取りの家の者にすぎぬ捨三には理由は分からぬ。しかしともかく、今、捨三は官軍に属し旧徳川方相手に戦っているのである。
これで良いのか ― それが捨三の偽らざる心境であった。
そんな捨三が畏敬する人がいた。上総国は請西(じょうざい)藩の若き元藩主で、徳川への義を貫き、脱藩して数十名の藩士を率い官軍相手に激しい戦を繰り広げているという人物である。
その人物がこの地の敵陣にいると知り、捨三は一目見たく願い部隊に随伴したのであった。そしてその望みは叶えられた。
その日、官軍の縦隊は、旧幕府軍の待ち伏せに合い激しく銃砲撃され、崩れた。
「引けーっ」という怒号のなか、捨三は見た。山肌の上の敵陣で、陣羽織を羽織った若武者が凛々しく隊を指揮しているのを。捨三が畏敬するその人であった。
捨三は見惚れ、我を忘れ、気が付くと一人になっていた。山肌の上の兵が捨三を撃とうとしたとき、若武者が止めた。
「貴殿はなぜ逃げぬのか ― 」
そう問いかけられた捨三は、思わず跪いて地面に両手を突き、若武者を見上げた。
「拙者は彦根藩士、西村捨三。寡兵を率いての徳川への忠義の御戦(おんいくさ)、お見事なり」
応える若武者の声は涼やかであった。
「貴殿は徳川への忠義の心を持つか」
「当藩は譜代筆頭にござれば ― 」
捨三は言葉を接げず、地面の土を掴んだ。
「彦根侍にも忠義の者はおったか。感心千万である。貴殿は打たぬ。切腹を差し許す」
そう言われ、捨三は暫し逡巡し、答えた。
「有難き御沙汰也。なれど拙者、脱藩して貴隊に加わりとうござる。脱藩は藩に届を出すが作法ゆえ、一旦、帰隊を許されよ」
捨三は真剣に脱藩しようと思った。それを見定めるかのように若武者は捨三を見つめた。
「武士に二言はありませぬ」
捨三の断固たる言葉は若武者の胸に届いたようであった。若武者は静かに頷いた。
帰隊した捨三は藩の江戸屋敷に出す脱藩届を認(したた)めた。が、ようやく江戸行きの機会を得たとき、若武者が敗れ官軍に降ったとの報が届いた。捨三の望みは断たれた。
その後、官軍への功績大なる彦根藩の出身である捨三は心ならずも新政府で栄達した。
あのお方に会わせる顔がない ― そう思い続け二十一年。捨三は大阪府知事に赴任して驚愕した。職員録にあの若武者の名を見つけたのである。その名は、林忠崇であった。
忠崇は官軍に激しく抗ったがゆえに明治政府に疎んぜられ、月給十二円の下級官員に身を落としていたのである。
その忠崇が廊下を歩いてくる。
便所の戸に額を付け、捨三は忠崇が通り過ぎるのを待った。しかし、これで良いのか。忠崇は義士である。義士からは、逃げれば逃げるほど己(おの)が不義が浮彫になる。とはいえ忠崇に会うのは怖い。忠崇が自分に向けるであろう蔑みの目が怖い。捨三は煩悶した。
苦しくなった捨三が身を翻すと、窓の外、しとしと降る雨が見えた。思えば二十一年間、一日として気が晴れたことはない。捨三の魂は、ずっと長梅雨の中を彷徨ってきた。捨三は、そんな自分に気付き、心が決まった。
―― 詫びて、長梅雨を終わらせよう ――
窓の外、西の空の雨雲が薄日でほんのり明るくなった気がした。
捨三は、戸を開け、一歩を踏み出した。