受講生の作品
受講生の作品
伊之助は、目の前の痩せてちっぽけな女の子が自分の娘だとはどうしても信じられなかった。名はおみつ、数えで十歳になるという。たしかにその時分、懇ろになった女はいた。三十路の手前で経師屋という仕事に倦み、命の先行きが見通せた気になって荒れた時分、伊之助は夜鷹崩れの女に蹴転がされるように溺れていった。二人の縁は三月かそこらで、ある日、女は姿を消した。おみつの固く結ばれた唇と薄い眉毛に女の面影がある気もするが、それ以外が自分に似ているとも思えない。
先日の天神様をも嘗め尽くした大火でおみつは家と母親を失った。付き添いの女は、被災者たちの仮小屋でおみつと知り合い、おみつが母親から聞いていた伊之助の名と所を頼りに訪ねてきたという。話のあいだ、おみつは、首からさげた巾着袋を右手に握りしめ、煤だらけの着物の裾を見つめたままだった。語り終えた女は、おみつを押し出して踵を返す。取り残された二人の足元に、濃く長い影が伸びていた。
おみつはできた子だった。朝早くから起き出して米を炊き、味噌汁を作る。部屋中を清め、下帯まで洗ってくれる。おかげで伊之助は見違えるように小ざっぱりして顔の色つやも良くなり、仲間に冷やかされている。だが、それと打ち解けることは違う。おみつは表情が乏しく、まったくと言っていいほど喋らなかった。いつも伊之助の顔色を窺い、眉でも顰めようものなら体が強張り、怯えた目になる。できすぎた気働きは、生きるために必要だったのかもしれなかった。
ある日、伊之助は届け物をした帰りにおみつの姿を見かけ、気になって後をつけた。おみつは焼け落ちた天神様まで来ると手を合わせ、さらに奥へ抜けた。その辺りは大火の傷跡がなまなましく残っており、あちこちに真っ黒な木材が積み上げられている。
おみつは、その残骸の一角で立ち止まり、首に下げた巾着袋から何かを取り出した。残骸の根元あたりを掘って埋めている。同じように数か所を掘ってそのたびに巾着の中身を埋め、何度も振り返りながら帰っていった。
その夜、おみつが眠ってから伊之助は巾着の中を覗いてみた。小指の爪の半分ほどの、栗を太らせたような形の種がぎっしりと詰まっていた。
伊之助が文を埋めようと思いついたのは、種蒔きに気付いてからひと月ほどたった頃だった。どうやらおみつは、あちこちに種を蒔き、何度も様子を見に行っているようだった。焼け跡の痩せた土地で芽吹くとも思えなかったが、祈るようなおみつの背中が不憫で、やがて不毛な種蒔きが辛くなった伊之助は、何かをせずにいられなくなった。代書屋の女に頼んで、迷ったあげく「おおきに」と書いてもらうと、おみつが種を蒔いたばかりの所に、わかるようにそっと埋めた。
すっかり懇意になった代書屋の女と伊之助は、向い合って腕組みをしている。
掘り出した結び文を抱きしめて眠るおみつを見て、伊之助はその後も文を埋め続けた。代書屋と頭を捻り、最初は挨拶くらいのものが少しずつ長くなって、そのうち、あの世の暮らしを面白おかしく創作するようになった。死んだ母親がおみつへ宛てた文になればと思ったからだ。おみつも母親からの文と信じたようだ。だが一度は明るくなった顔に再び影がさし始めた頃、おみつが文を埋め返してきた。そこには「会いたい」と書いてあった。
「潮時やないですか」
代書屋の言葉に伊之助は唇を噛みしめる。詰まるところ、おみつは母親にしか心を開かないのだ。伊之助と一緒にいるのは飯と寝床のためだけだ。わかっていながら、おみつの笑顔に執着する自分にうろたえた。伊之助は汗を額に浮かべ、真っ白な紙を睨み続けた。
夕餉のあと、おみつが伊之助の前に膝を正して、一輪の白い花を差し出した。
実は、この花は伊之助が最後と決めた文に添えたものだ。文には、誰かにこの花を食べさせれば、その人の体を借りてずっとそばにいられる。それで堪忍してほしいと綴った。
黙ったままのおみつを前に、伊之助は覚悟を決めて花をつかむ。
「あかん!」
はじめて聞くおみつの声だ。振り切るように花を口に入れると、苦い味が広がった。
「文をくれてたんは、伊之さんやろ」
思いがけない言葉に伊之助の動きが止まる。おみつは袂から、真新しい結び文を差し出した。震える手で伊之助が開くと、種を蒔く女の子を一人の男が見守る絵だった。おおきに、と笑うおみつの声を聞きながら、伊之助の手の中で、みるみる絵が滲んでいった。