受講生の作品
受講生の作品
「若奥さん、てんご言わんとき」
「ふざけてなんかいません。本気です」
兼市は仏頂面のまま吐き捨てた。
「素人がいっちょ前の顔して」
「そんなこと言わないで考えてみてください。兼市さんの技量は西陣で三本の指に入る、と聞いています。だから」
「でけんもんはでけん。ひつこい女子(おなご)やなあ」
だんだん声が大きくなる。工場(こうば)からは職人たちが出てきた。母屋からは姑と舅が暖簾から顔を覗かせる。
「やめなはれ。ご近所に聞こえますがな」
「にらみおうてんとこっちおいで。まあ、二人とも座りなはれ」
姑と舅の柔らかい声に千春はふうっと肩の力を抜いた。
兼市も握りこぶしを緩めた。
「どないしたんや。千春、言うてみ」
千春は一生懸命に訴えた。薄くて軽い帯を織って欲しい。
織るのも仕立てるのも売るのも男衆(おとこし)が主だが、身にまとうのは女だ。豪華な帯も値打ちがあるけれど、軽い帯があったら締めやすいし体も楽だ、と。
「確かにそないなもんがあったら楽やろな。ほやけど、なんでそないなこと思たんや」
姑は一つ頷いた後けげんそうに問うた。
「着付け教室で若い子らが言っていました。軽くて締めやすい帯があったらいいのに。そしたら気軽に着物で出かけられるのに、って。軽くて扱いやすい帯だったら着物を着てくれる人も増えるんじゃないかと」
舅は社長の顔になった。しばらく思案していたが、ぽんと膝を叩いて言った。
「おもろいやなかいか。兼やん、やってみいひんか。あんたの腕なら織れるやろ」
千春は嬉しかった。「浄福織物」に嫁いで半年、西陣独特の常識が分からず、器量がいいだけの嫁と陰口を叩かれている。それが初めて一人前に扱ってもらえたのだ。
だが、晴れがましさはすぐにしぼんだ。
翌日千春はお茶の先生を囲む会に出かけた。姑はくれぐれもと念を押す。
「あんじょう頼むで。失礼のないようにな」
着物は葡萄色。一見地味に見えるが竹と桐の地模様が美しい。葡萄柄の引き箔の帯。千春の大好きな帯だ。
「まあええ地模様。帯もさすが浄福はんやわ」
千春はにこやかに頭を下げる。褒めるのは着物と帯だけ、さすが京都人。心の声が届いたのか、ご婦人は慌てて付け加えた。
「若奥さん、色も白うて目鼻立ちも整ってはるし、よう似合(にお)てはるわ」
そうこうするうちに後ろが支(つか)えてきた。席についているのはお茶の先生だけだ。席次札がない。どこに座ったらいいか分からない。千春が後ろへ回ろうとしたとき、「早よ、座りまひょ。お若い方から」
さっ、どうぞと後ろから押されるようにして千春は座敷へ足を踏み入れ、下座に座った。
その晩のことだ。姑の部屋へ呼ばれた。
「今日は大恥掻きましたで」
何のことだろう。いつものように千春は首をすくめ身を縮める。姑の声が降ってくる。
「あんた、一番に座ったんやて。紋屋のご隠居はんが嗤(わろ)てはりましたえ」
席次札がなかったから、と小さな声で言えば、姑は額に手を当ててため息をつく。
「西陣のしきたり、まだ分からんのやなあ」
千春は悔し涙を堪(こら)えるので精一杯だ。面と向かって言わず、教えてもくれないで、陰で嗤(わら)って。告げ口して。いけず。
背中を抱いて慰めてくれるはずの夫は外回りに出たきりだ。今夜もまだ帰ってこない。
それから四ヶ月後、坪庭の飛び石にも雪が残る早朝のことだ。
「若奥さん、こっち、こっち」
兼市が工場の手前で手招きしている。機嫌は悪くなさそうだ。千春は小走りで向かった。
嫁に来たばかりの頃は願っても入れなかった。職人以外の女は工場に入れへん。と、ぴしゃりと言われた。それ以降兼市が苦手だった。その兼市が今、頬を緩め手招きしている。
「早よ。入んなはれ。段差に気いつけてな」
工場は天井まで届く大きな機械が土間に直接据え付けられていた。名前も用途も分からない物が整然と置いてある。経糸(たていと)が何百本、何千本と列をなしている。
「こんなにたくさんの経糸、どうやって通すんですか」
「一本一本、手で通すに決まってますがな。それより若奥さん、これ、触ってみなはれ。裏返してな」
織機から伸びる帯地に恐る恐る手を伸ばす。裏返して触る。
「薄くて軽い。手触りもいいわ。それにきれい。葡萄唐草ね」
「へえ、若奥さん、葡萄柄お好きでっしゃろ」
胸が熱くなる。千春は思わず兼市に手を伸ばした。兼市は痛いほど力強く握り返した。
「ありがとう。兼市さん」