受講生の作品
受講生の作品
「ありゃ、泣き女だ」と叔父の庄三郎は、私に耳打ちした。
通夜式の参列者は思いのほか少なく、そそくさと焼香を終えて席に戻るものが大半であった。しかし、最後列にいた女二人は焼香を終えても、しばらくはハンカチで目を抑えながら立ち止まっていたのだ。
私はその様子を横目で見ながら「泣き女?」と庄三郎に尋ねた。
「ああ、兄貴が生前に注文していたんだろうな」
私の父方の親族は三兄弟で、長男が義一郎、次男が父である宗次郎、三男が庄三郎という。
義一郎はここしばらく入退院を繰り返していたが、昨日の朝、突然の発作で急死した。齢七十六歳であった。
泣き女と聞いて少々面食らったが、生前に注文という言葉に、さもありなんと納得したのだった。
義一郎の生前のことである。祖父の法事の席のことだ。
義一郎は酔っていたのかどうか、不意に、私にこんなことを言った。
「いいか、男の人生は何人女を泣かすかで決まるんだってよ。だから俺の葬式には女をたくさん泣かすんだ」
時代錯誤で、なんてつまらない価値観なのだと、私は思った。伯父とはいえ義一郎をひどく軽蔑した。まだ若い私に、伯父がこんなセリフを吐くのは、素養と環境の仕業とも感じたのだった。
義一郎は独身であった。たいして仕事もしていなかったらしい。三兄弟の生家は不動産を少なからず所有していて裕福であった。彼らの両親、つまり私の祖父母は三十年ほど前にすでに他界している。父である次男、叔父である三男はすでに結婚し家を出ているので、義一郎は金の心配もせず、独身生活を謳歌していたのである。その財力をもってすれば、寝てくれる女はいくらでもいたに違いない。
いい年のおっさんが、仕事もせず、金にものをいわせて女を抱く。クズという表現がぴったりである。
挙句の果ての臨終である。しかも泣き女だと。
『泣き女、生前に注文』ときいて想像はつく。こんな仕事がいまだにあったのか。
二人の女はしばらくすると、親族席に一礼しそのまま席に戻らず去っていった。本当に泣いていたのかは定かではない。所詮、金で雇われた者たちだ。なんとも悍ましい。
男というものは、つまらない見栄を張るものだと思う。
「おい、庄三郎、余計なこというな」とは、隣に座っていた父の言葉である。
「お、すまん、すまん」と、庄三郎は場にふさわしくない笑みを浮かべながら、姿勢を正した。この人は悪い人ではないけれど、軽々しいところがある。
私は顔を伏せ、笑いを噛み殺しつつも、父が兄とも弟とも違う、普通の価値観を持った大人であることに、兄弟の不思議さを感じた。
僧侶の読経が終わり、進行役が通夜式の終了を告げる。
私は会館の別室に用意されているであろう、通夜振る舞いを食す気にもなれず、先の帰宅を父に告げた。
「ちょっといいか」と父。
「なに、気分が悪いから帰る」
「さっき、あいつが『泣き女』って言っていただろう」
「それがどうかしたの?」
「あの人たちは私の知人だ。私が無理に頼んだのだ。兄貴の遺言だったんだ」
「どういうこと?」
そこから、父が私に話してくれたのは、義一郎おじさんの悲しい話だった。
義一郎おじさんはゲイだった。いまとは違って、こんな田舎じゃバレたら親兄弟にも迷惑がかかる。義一郎おじさんは死ぬまでそれを隠し通したかった。自分も家を出ていきたがったが長男は家を継ぐのが当たり前の時代だったこともある。
「兄貴がなぜ、泣き女のことを思いついたのかはわからない。だいぶ耄碌もしていた。だが、死んだ後も嘘を着き通したかったのだろう」
私は義一郎おじさんのセリフを思い出した。
「いいか、男の人生は何人女を泣かすかで決まるんだってよ。だから俺の葬式には女をたくさん泣かすんだ」
この言葉はおじさんの価値観ではなかった。おじさんの生きた時代の価値観だったのだ。
翌日の告別式で、私はもう一人の泣き女となったのだった。