受講生の作品

作品集「炎心」コンクール 2018年度 フィクション部門 優秀賞受賞

樋口直子 さん
大学院
31期生(2017年度)
年齢:50代 性別:女性

傍観者

 古びたアパートの窓から、万里子は夕闇を見つめていた。窓を開けると、カーテンを通していくらかの風が入ってくる。部屋の中の熱を帯びた空気が、身体からゆっくりと剥がれ落ちていく。床の上に散らばっていた服を掻き集めながら、「じゃ、もう帰るね」と万里子はベッドの上の男に囁いた。すると、開け放った窓から、子供の泣き声が聞こえてきた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 この声を聞くたびに万里子は気が重くなる。だが、男はベッドから起き上がると、不機嫌そうに窓を閉めるだけだった。

 万里子がアパートの階段を降りると、一階の部屋の玄関前で子供がしゃがみ込んでいた。三歳位の男の子で、まだ春だというのに下着姿。俯いたまま右手で石を持ち、ガッ、ガッ、ガッと地面に何度も振り下ろしていた。何をしているのだろう。万里子はゆっくりと子供の手元を覗き込む。

 目に飛び込んで来たのは、パニックになって地面を蠢く沢山の蟻とその死骸だった。

「やめなさい。蟻が可哀想じゃない」

 万里子が咄嗟に叫ぶと、子供が顔を上げた。紫色に腫れ上がった左目を見た途端、万里子は思わずその子供の肩に手を掛けた。

 翔太と名乗る子供を連れて、もう一度男の部屋の玄関を叩いた。酷く痩せこけ饐えた臭いの漂う翔太を見て、男は「万里子さんって優しいよね」と揶揄する。万里子は黙って翔太の服を脱がすと、目を覆いたくなった。肩から背中にかけて、煙草の火を押し付けられたであろう火傷の跡がいくつもあったからだ。

 児童相談所に連絡した方がいいのではと、万里子は思った。だが、テレビに夢中になっている男はこちらを振り向きもしない。仕方なく翔太を風呂に入れてやった。

「どうして蟻を殺しちゃいけないの?」

「蟻にもね、翔太君と同じように命があるからよ。お父さんとお母さんがいて……」

翔太の火傷の跡が目に入り「皆が悲しむから」と、万里子は小さく呟き表情を曇らせた。

「ふうん」

 翔太は曖昧な顔をした。湯船に入って、その小さな頭をそっと撫でてやる。

「おばちゃん、抱っこして」

 恥ずかしそうに翔太が笑った。

 

 それから数週間後、万里子が男と部屋で過ごしていると、翔太の激しい泣き声が聞こえてきた。万里子は不安になる。

「何だか変じゃない? 尋常じゃない泣き方よ」

 しかし「いつものことだよ。それよりさ」と男は万里子を後ろから抱き締め、その首筋に唇を這わす。万里子は男を払い除けた。

「警察に通報しなきゃ」

 万里子はバッグからスマホを取り出した。

 男は万里子の両肩を掴んで、挑むように言い放った。

「今、自分がどこにいるか、何をしているか、分かってんの? ご主人にバレたらまた殴られんでしょ?」

 万里子の手が震えて止まる。男は、痣だらけの万里子の二の腕をすっと撫でると、スマホを取り上げ、機嫌良さそうに窓を閉めた。

 夕方になり、万里子は帰宅しようと男の部屋を出た。気になって翔太の部屋の前で足を止める。中からは何の物音も聞こえてこない。ただ、玄関前で蟻が規則正しく列をなし、せっせと食べ物を運んでいるのが見えた。

 最寄り駅に向って歩いている途中、サイレンを鳴らした救急車とすれ違った。アパートの方向だ。嫌な胸騒ぎがする。

 万里子が翔太の死を知ったのは、次の日の夕刊だった。すがる思いで男に電話する。ところが、男は雑踏の中で事務的に「そうなんですか」を繰り返すばかりだった。若い女の「誰なのよ」と言う声が電話口で聞こえた。「保険のおばさん」と答える男の声も。

 数日後、万里子が翔太の部屋の前で花を供えていると、隣の部屋の玄関から年配の女性が顔を出し、話しかけてきた。

「可哀想な子だったわ。年中父親から暴力を受けていたの。だのに母親は知らんふりだし。今の若い親ってどうなってるのかしらねえ」

 女性は同意を求めて、万里子の顔を覗き込んできた。そういうあなたは今まで、何をしていたんですか、なぜ通報しなかったんですか……万里子はこれらの言葉を飲み込んだ。女性の目が何かに怯えていたからだ。彼女は万里子自身かもしれない。

 

 三年の月日が流れた。

 アパートは取り壊され、跡形もない。

 だが、あの春の日と同じように蟻の行列を見かけると、それは万里子の心に暗い影を落とすのだ。

 あの時の私はただの傍観者だったことを。

 これからも忘れることは許されないことを。

作品種類
心斎橋大学ラジオシアター放送作
作品集「炎心」コンクール受賞作
作詞修了作品コンクール
公募受賞作品
修了制作 最優秀賞受賞作品
作品ジャンル
作詞
脚本(ラジオ)
ノンフィクション
小説
エッセイ
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