受講生の作品
受講生の作品
先日、古くなった洋服類をまとめて捨てようと思い立ち、棚の中身をひっくり返して次々にごみ袋の中へ……。そうするうちによくよく思ったことは、あぁ、この服たちも、買った当初は新ピカで、オシャレな紙バッグに入れてもらって、買い手(=私)からも喜ばれて大事にされ、人生ならぬ物生(造語です)のピークだったんだなぁ……ということだ。だがあんなに輝いていた服たちも、数年たつと色褪せ、いつのまにかすっかり古びている。面白いことに、気に入って何回も着たものよりも、あまり気に入らずほとんどお蔵入りだったものの方が、古び方はずいぶんと早いようだ。物は使ってもらうのが花、とはよく言ったものである。
考えてみると、手に取った瞬間には真新しさを放っていたものが、一夜にして古びてしまうといったものは意外に多い。その最たるものは新聞であろう。早朝、ドアポストに投げ入れられた朝刊は、「見て見て!出来立てホヤホヤのボク!早く読んでよ!」と言いたげで、手に取るこちらも、紙の新しい匂いを感じながらなんとなく嬉しい気持ちになる。それが一人に読まれ、二人に読まれして午後にもなると、どこからともなくシワが寄りだし、早くも余生の少なさを漂わせ始めるのだ。ほんの数時間前には、あれほど生き生きとしていたというのに……。
週刊誌もまた然り、オモチャが入った化粧箱も同じく。花屋さんで造ってもらった花束、食用に日々売られている野菜も、みずみずしい時間は長くない。新聞ほどではなくとも、せいぜい三~五日が限度であろう。
教科書なら約一年、電化製品なら五~十年? このように考えていくと結局のところ、全てのモノにはそのモノなりの、限られた「旬」があるというわけだ。
では人間の旬はどうか?もちろん肉体は、前述したモノと同様に古び、いわゆる老化の一途をたどってゆく。だがここで注目すべきは、心=精神の存在である。サミュエル・ウルマンの、『年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて人は老いる。』という言葉の通り、外見のみでは判断できないところに人の妙味があるといえよう。すなわち二十歳の老人もいれば、八十歳の若人も存在するわけだ。
そして、ここでもう一度先の問いに戻ってみたい。『人間の旬は、一体いつだと云えるのだろうか?』
これに対する私なりの答えはこうである。
「人が情熱を持って何かに取り組んでいる限り、その地点は常にその人の旬と云えるのではないか?」
人は、一心不乱に何かを探究したり、あるいは創っているとき、常に向上してゆくことのできる生き物なのだ。そしてこの点こそ、他の動物やモノたちと一線を画す点なのである。
このように考えてきて気が付いた。
ピタゴラスが発見した数式や、アインシュタインが見つけた物理の法則や、近年本庶佑博士が解明した新しい免疫機構、あるいはまた古今東西に伝わる古典的な芸術作品(文芸、美術、音楽、映像、その他……)、そういったものは、永遠に古びないのではないだろうか?
それらは時代を越えて生き続け、新しい時代の中であらたに息を吹き返すものさえあるような気がする。
古びないもの……
それは肉体が滅びるまで持ち続けられた、人の情熱であり、またそのような姿勢によって創られた作品たちだ!
ミケランジェロは八十九歳で逝く直前までピエタを彫り、北斎は自らを画狂老人と称して死(同じく八十九歳)の直前まで絵筆をふるい、ピカソは九十二年の生涯において、およそ八万点にも及ぶ驚異的な数の作品群を遺した……そうまでして彼らを突き動かしたものは、果たして何だったのか?
もしかして人生とは、古びゆく肉体を持つがゆえに限られた時間の中で、自身の心を捉えて離さない、魅力あふれた「古びないもの」を、探し出す旅なのではないだろうか。
庭に美しく咲く花も、ピークを過ぎればしおれ、最後には散ってゆく。だが美しかったピークの瞬間は古びない。それを残すために写真家はカメラを構え、画家は絵筆を取る。文筆家は文章でそれを表現しようとする。
じきに古びてしまう新聞の中に、今日この瞬間自らを奮い立たせるような珠玉の文言を見つけたとしたら、その人にとってその文言は古びない。古びないものはどこに転がっているか分からない。それはいわば宝探しのようなものだ。
文章を書くとは、自分の中に眠っている、未だ見ぬ宝ものを探し出すことかもしれない。それはまた、古びない魅力あるものを、創ろうとする営みなのかもしれない。
古びた洋服たちをごみ袋に突っ込みながら、そんなことを思ったのだった。