受講生の作品
受講生の作品
人を焼く臭いに慣れることができない。火葬許可証を提出するたびに訪れる事務所の片隅で、茉莉(まり)は手続きが終わるのを待っていた。臭気は静かにたちこめている。今日も火葬場は満員だ。休む間もなく死体が焼かれていく。突然、焼却具合を確かめるためについている小窓に、人が飛びかかってきた。また死体が起き上がったのだ。声を上げそうになって飲み込む。強く目を瞑って何かを押し殺す。それにしても、この臭い。ずっしりと背負い込んだようになるのは、気のせいだろうか。怨念という言葉を思い浮かべては頭を振った。誰もが惜しまれて亡くなるわけではない。
茉莉が葬儀屋に就職したのは一年前。それまでは大手の保険会社で事務のパートをしていたが、食べていけなくなった。離婚したからだ。夫の暴力に耐えきれなくなったのだ。三人目の子どもが大学を卒業するまで待つつもりでいた離婚だったが、体が悲鳴をあげはじめた。三男が高校二年になった頃から、下痢が何ヶ月も続き痩せ細ってしまったのだ。友人に連れ出される形で別居し、調停を経て離婚した。夫はあっさりと暴力を認め、養育費の支払いは了承したが、借金を理由に慰謝料については拒んだ。離婚だけを成立させ、まだ裁判をしている。
死者と向き合う職業に抵抗がなかったわけではない。けれど、五二歳の特別な能力のない女を雇ってくれる会社は他になかった。毎日、物のように死体は運ばれてくる。医師の診断書がある場合はよい。けれど、検死を経て警察から返ってくる死体には、目を背けたくなる。亡骸が入っている納体袋をあけると、足元に脳みそが置かれていたりするのだ。日数も経て返されるので、暑いときには蛆虫がわいている。
その客が訪れたのは、夏も終わろうとしている頃だった。ほっそりとした躯体にショートカットが似合っている。白髪交じりの自然な髪型にやつれた頬が寂しげだ。ブラウスの袖からは古い傷が見えた。先輩社員たちが忙しく立ち回っていたので、プランニングを任されることになった。
茉莉の勤める会社では主に家族葬を取り扱っている。安さがセールスポイントの葬儀屋だ。中でも、火葬だけを済ませる「帰郷」という施工は、二十万円ほどで全てを終えることができた。通夜も葬式もない。僧侶も呼ばない。人の死亡手続きだけを行なう。
「御主人様の御葬儀ですが、何か希望はございますか?」
「さっさと終わらせたいんですよ。一番早く終わる方法でお願いします」
松谷と名乗った女は、方頬だけを引きつらせていた。憎しみが顔に張り付いている。
「では、帰郷コースでいかがでしょう。火葬場の空きがあれば、すぐにでも済みますよ」
「ええ。それでお願いします。夫との縁を早く切りたいんです」
「ご苦労なさったんですね」
「夫には、苦しめられました。暴力で。どうして早く逃げ出さなかったのか……」
「私も同じでした」
二人は見つめ合って、けれどそれ以上何も言わなかった。語り合えるほど簡単な過去ではない。松谷のブラウスの袖から見える古傷が、なぜか赤く脈打っているような気がした。
「割り込んででも早く火葬場を押さえます」
目で頷きながら、決心を口にする。松谷は、死亡手続き全般を会社に任せると言うと、現金で支払って帰って行った。骨も適当に拾ってくれとのことだ。離婚をしなかったら、それは何年か後の茉莉の姿であっただろう。それから、妻に心底死んでほしいと願われる、男の人生を呪った。
二日後に、松谷の夫は焼きあがった。想像以上に太い骨だ。喉仏だけ骨壷に入れると、
「馬鹿、馬鹿、馬鹿」
茉莉は、小さく声を上げながら長い箸で残っている骨を突き続けた。男の残像が手応えもなく砂のように崩れていく。それは、いつしか別れた夫の姿に重なっていた。こんなにも憎んでいたのだ。骨上げがすんだら、残りの骨や灰は、火葬場にとりつけられた強力な吸引器で集められる。定期的に産業廃棄物として処理されるのだ。この男も別れた夫も、いつか、ただのゴミになる。離婚して封印したはずの憎しみが、思いのほか強く湧き上がってきたことに困惑していた。もう全部、捨てて忘れてしまいたい。
鏡に姿を映してみる。髪も肉もある。まだ灰になっていない自分の姿を、一つ一つ執着しながら確かめていると、ふいに誰かに抱きしめられたい衝動にかられた。茉莉の中の女が、生もののようにドロリと溶け出してくるようだ。生きたいと、強く思っていた。
夏の終わりに蝉が死んでいく。足元に最期の鳴き声を感じながら、握り締めた拳の強さで顔を上げる。夕暮れ。圧倒的なオレンジだった。なんて生々しい太陽だろう。