受講生の作品
受講生の作品
母が「余命宣告」を受けた。医者が発した言葉に、私も母も応答できない。診察室は静寂に包まれた。沈黙が重たく胸に覆いかぶさり、私は呼吸困難になりそうだった。
「もちろん個人差はあります」
医者が言葉を継ぎ足した。それは、私たちに対する慰めか、あるいは癌患者の客観的な生存データの補足だろうか。
「今後、痛みが生じた場合に備えて、緩和ケア外来を紹介しましょうか」
医者が緩和ケア外来に連絡を取ってくれた。次回の診察予約も半年後に入っていたが、これまで受けてきた検査は何一つなかった。もはや「死」を待つのみということなのか。
私は溢れそうな涙を必死で堪えた。骨と皮で、薄っぺらく、関節だけがやけに浮き出ている母の手を引いて、診察室を出た。その手は、血液すら循環していないかのように冷たかった。九十二歳になる母は、今の話が理解できたのだろうか。俯いて何もしゃべらない。
私たちは、緩和ケア外来の待合室の長椅子に、セミの抜け殻のように座っていた。天井まで届く大きな窓ガラスの向こうに、マンションが群れをなしている。秋の強風に煽られ、赤白黄青、色とりどりの洗濯物が威勢よく踊っていた。
次の日、最前線の癌治療をテーマにした講演会に参加するため、私は真っ昼間の阪急電車神戸線M駅の上りホームにいた。母のことを思い巡らしているうちに、気がつくとホームの一番先頭にあるベンチに腰かけていた。突如私は鮮烈な思い出が蘇り、ハッとして立ち上がった。間違いなくこのベンチだった。今から二十一年前のあの日、午後出勤のため、早目に昼食を済ませた私はここに座っていた。
ゴールデンウィークも明けて、再び慌ただしい日々が待っていた。しかし、ゆったりとした昼間の時間が流れる中にいると、このまま仕事を放棄して、神戸港でぼんやり海を眺めていたいという誘惑に駆られるのだった。
下りのホームには、昼間でしか出会わないだろう乳母車をひいた若い母親や習い事の帰りなのか、老婦人が数名、賑やかにお喋りをしていた。のどかな風景だった。
いつの間にか私の二つ隣のベンチに、白髪交じりの男性が座っていた。私との間に羊羹の菓子箱二つほどを包んだような紫紺の風呂敷包みを置いている。今どき風呂敷包みを持ち歩く人は珍しかった。
特急電車が通過する旨のアナウンスが駅に響くと、隣の男性はスクッと立ち上がり、電車の進行方向へ迷いもなく歩いて行く。私は男性の後ろ姿を見送りながら、「トイレは反対方向です」という言葉を飲み込んで、読みかけの本に目を戻した。
特急電車がホームを通過したと同時に、女性の叫び声と油の切れた歯車が喘ぐようなすさまじい急ブレーキの音がした。私は驚いて立ち上がり前方のホームを見たが、あの男性の姿はどこにもなかった。目の前でとんでもないことが起こったのを悟った。
血相を変えて駅員が走って来た。急停車した電車は後戻りは許されず、そのままゆっくりと進行方向へ進んだ。昼間の電車の窓から、いくつもの顔が突き出している。向かいのホームで若い女性と赤ん坊が一緒に泣いている。老婦人たちはベンチにへたり込み、ハンカチを握りしめ、「なんてことを」と早口でまくし立てていた。
私は茫然としながらも、線路際に恐る恐る近寄った。見届けねばならない、そんな気持ちだった。血は、線路の枕木や砕石をおびただしい量で染め上げていた。人間の血がこんなにも鮮やかなトマトレッド色をしていたことを初めて知った。たった今目の前を歩いて行った男性は、瞬時に変貌を遂げていた「人間」って何だろう。私たちはなぜ「存在」しているのだろうか。「死」とは――。
手袋をした三人の駅員たちは、列車の運行に支障をきたさないよう懸命に働いていた。半透明の大きなビニール袋を持った若い駅員は目に涙をためていた。中年の駅員が青いバケツを持って、私の前を通り過ぎようとした。思い切って声をかけ、ベンチに置いたままになっている男性の忘れ物のことを伝えた。
二十一年前の出来事で、男性の後ろ姿はもはや黒い影でしかない。ただ残された紫紺の風呂敷包みにいったい何が入っていたのか、幾度となく想像を巡らした。「忘れ物」と駅員に伝えたが、あれは唯一男性の存在した「証」だったのだ。
電車がホームに滑り込んできた。緩やかなカーブを曲がると、南側の窓から一瞬だがアルミホイルのように煌めく海が現れる。その海のもっと遠くを見つめながら、最期に母は風呂敷に何を包むのだろうかと考えていた。