受講生の作品
受講生の作品
「お母さん、スマホのメッセージを見てくれた? 今からの予約なら春先の旅行が早割で安くなるし、幾つかツアーを選んでみたんだ」
「真奈の言う通りだけど、少し考えさせて」
「また? もう二年になるでしょ、お父さんが亡くなって。カラ元気でもいいから吹っ切れないと、お父さんもあの世で心配して、居心地の悪い思いをするかもよ」
「でも、気楽に見えて一人は大変なんだから」
「とにかく、新しいことを始めなよ。まだ五十代なんだし、人生楽しまなきゃ損よ。あ、りっくんが泣いているわ!じゃあ、またね」
間宮陽子が胸の内を話す前に、慌ただしくスマホの電話が切れた。孫の陸は朝からぐずっているらしい。ママになって三年、娘の真奈も毎日大変だ。
住み慣れた一人きりの部屋に、冷え切った静寂が戻る。
スマホに触るうち、電話帳で夫の照彦の名前に辿り着く。
繋がらない電話番号を、陽子は亡くなった後も消さずにいた。
「照彦さん。今日で三十年目よ、私たちが一緒になって。こんな日ぐらい帰ってきてくれないと心細いわ」
窓から冬空を眺め、二人で過ごした風景を懐かしむ。照彦が帰ってくるような錯覚に、陽子は口元を緩めた。
あり得ない期待を打ち消したとき、インターホンの音が鳴って心臓が跳ねた。たいして広くもないマンションだ。すぐに玄関のドアを開けると、宅配便の配達員が立っていた。
薄い荷物は陽子宛になっている。『タイムカプセルお届けサービス』の社名に心当たりはない。しかし送り主の名に、陽子の手が微かに震え、配達員から荷物を受け取った。
間宮照彦……陽子は何度も目を疑った。
夫が仕事中に心筋梗塞で亡くなり、二年が経つ。生前、そんなサービスを頼んたとは全く知らなかった。タイムカプセルというが、何を陽子に渡そうとしたのか。考える時間も惜しく、急いで部屋に戻り荷物を開封した。
A4サイズの封筒が出てきた。中にはパズルの台紙とピース、説明書が入っていた。どうやら、照彦がオーダーメイドしたジグソーパズルらしい。
『祝・結婚三十周年 陽子&照彦』というポストカードの文字は、確かに夫の自筆だ。陽子の胸に歓喜の鼓動が響き、感極まった眼はたちまち視界がぼやけた。
口下手な照彦のことだ。思い立ったときにサプライズを頼んでいたのだろう。何年も前から準備して、陽子と今日を祝うつもりで。
完成図の写真も同封されていた。鄙びた温泉街をバックに、照彦と陽子の笑顔がある。夫が亡くなる前の年のことだ。これが最後の旅行になるとは思わなかった。
涙が零れないよう拭い、陽子はジグソーパズルをテーブルに広げた。100余りの小さなピースが、失われた幸福の破片に思えた。陽子は割れたガラスに触るように、恐る恐る一片をつまむと、パズルを組み立て始めた。
まず、四方の枠に沿ったものを選んで外周を作る。あとは写真を見ながら、中心に向かって分かりやすい場所から始めた。
三十数年前、散歩の途中の公園で、ジョギングをしていた照彦と親しくなった。運命と呼ぶほどでない、ありふれた出会いだ。
パズルのピースが嵌まるごとに、家族になっていった道のりが思い起こされた。
それなりに喧嘩や人生の逆風も経験した。けれど、ゆるやかな歩調で息の合った結婚生活だった。孫が誕生し、夫の顔に笑い皺を見たとき、陽子は照彦と歩いた日々に感謝した。
ある日、病院から突然の電話があり、駆け付けたが遅かった。冷たくなっていく照彦の前で、娘や親戚に連絡するのが精一杯だった。
「あまりに突然すぎて、別れが辛くて『おやすみなさい』としか言えなかったわね」
夫は、まだ生きたかったろう。死の間際に人生を振り返って、やり残したことはたくさんあったはずだ。そう、旅行だってまだまだ行きたいと、二人で約束していたのに。
今日この日、思い出を語り合うはずだった照彦はもういない。
緊張する指が最後のピースを嵌めた。照彦の欠けた顔がようやく埋まった瞬間、陽子の手に彼の温もりが重なった気がした。
完成したジグソーパズルには、夫婦揃った笑い皺の顔があった。
似合いの夫婦になろう。求婚の言葉どおり、身も心も寄り添って生きてきたんだ。そう思うと、二人の人生のピースもぴったりと嵌まった。いつかまた、うまく笑えるだろうか。
ひび割れていてもいい、選んだ道を進んでいこう。さよならは照彦とではない。喪服の色に染まった自分の心に陽子は別れを告げた。
「どんなに形が変わっても、私たちは夫婦よ。空から迎えに来たとき、旅の話を楽しみにしていてね」
陽子の双眸から溢れた雫が、嵌めたままの結婚指輪を濡らし、淡く光った。