受講生の作品

作品集「炎心」コンクール 2021年度 フィクション部門 奨励賞受賞

松永 環樹 さん
大学院
34期生(2020年度)
性別:女性

紀代ちゃんの赤い長靴

 紀代ちゃんが私の前で首をかしげた時、そのおかっぱ頭の髪が私の前で揺れた。紀代ちゃんは私の顔を覗き込み、彼女の瞳の中には私の顔が映っていた。

「お父さん、海にいてるんやろか」

 

 父の一番末の妹である登志子叔母さんと私とは、とても気が合う。私が小学校三年生の時、叔母さんは、二十三歳で博紀叔父さんと結婚した。二人とも尋常小学校の先生だ。

 昭和十二年、支那事変勃発直前のことだった。叔母さん達は、一男二女に恵まれる。

 叔母さんの結婚式から四年後、私は女学校へ入学した。週に一度、個人的にも俳画を習っていた美術の谷山先生が、チョークで黒板に馬の絵を描いていた時だった。学校のお知らせのコールサインが鳴った。皆、何事かと耳を傾けていると、

「只今、十二月八日、大東亜戦争が始まりました」

 との放送が流れた。

 教室に漂う沈黙を破って、谷山先生の声が響いた。

「戦争が始まりました。今、僕が描いた馬の絵は、一生、あなた方の心に残るでしょう……大東亜戦争、勃発」

 確かに、私は今でも、その絵を鮮明に思い出すことができる。

 先生は、真正面から捉えた馬の顔を黒板の中心に描いたかと思うと、放射線状に、斜め前から見た馬が食べ物を咀嚼している顔、真横から見た馬が疾走している姿、斜め上から見た馬のたてがみが風になびく様、を次々と、その手の中から生み出していくのだった。

 私は、黒板に向かっている先生の流れるような腕の動きにうっとりとなった。

 昭和十九年の夏、博紀叔父さんに赤紙が届いた。三人の子供達がそれぞれ、崇・五歳、佳代・四歳、紀代・二歳、の時で、その日はちょうど、紀代ちゃんの二歳の誕生日だった。

「子供、三人いてるのに、兵隊に取られるのんか」

 と、祖母は、肩を落した。

 出征した叔父さんから、「船で南方に行きます」との便りが届いて一週間後、叔父さんの戦死の知らせが、もたらされた。南方へ向かっていた船が、アメリカ軍に撃沈されたのだ。

 崇くんと紀代ちゃんは、休みの日には、よく祖母宅である我が家に、泊まることがあった。でも、佳代ちゃんだけは、薄暗くなると帰りたいと泣き出すので、学生定期券のある私が、幾度となく、電車で家まで送り届けるのだった。

 元々、十分程であった電車の乗り換え時間は、戦時中の電力消費規制により、十五分から二十分と、次第に長くなっていった。

 女学校近くに住む登志子叔母さん用にと、時折、通学時に、米や小豆を五合、祖母に持たされる。朝の満員電車の中で、これには、正直まいった。叔母さんは、自身と校長先生をしている義父との給料で、金銭的には困らない。しかし、食べ物のない戦時中のことだ。私が試験の日であろうとなかろうとお構いなしに、祖母は家の門の外で、ちゃんと待っていて、私に「五ん合」を手渡した。

 私は、知っている。祖母は、家族に気付かれないように、毎日、ほんの少しずつ、私達が収穫した米や小豆を、別の木綿袋に分け入れていたことを。そして、袋がいっぱいになると私に託し、登志子叔母さん宅に届けさせたのだ。

 白魚のようだと言われた私の手は、あれよあれよという間にお百姓仕事をする手になっていった。私は畑に出ながら、俳画の世界に身を置いていた頃の自分に思いをはせた。

 紀代ちゃんは、晴れの日でも、毎日、赤い長靴を履いて、一人で出かけた。子供の足でもすぐそこの、自宅と目と鼻の先にある魚屋だ。

 戦時中にもかかわらず、でっぷり肥えた、頭に白の豆絞りの鉢巻きに、紺の帆前掛け姿の、白い長靴を履いたおじさんが、いつも店先に立っていた。

 紀代ちゃんは、おじさんが魚を裁いて、頭や腸を入れていく、高さ四十センチ程の一斗樽にいつも両手をかけて中を覗くのだった。それが、あまり毎日の事だから、おじさんは、不思議に思ってきいてみたらしい。

「紀代ちゃん、なんで、いつも汚いところばかり見てるんや」

「お父さん、海で死んでん。魚のお腹見てたら、お父さん、出てくるかと思って見てるねん」

 登志子叔母さんからこの話を聞いたのは、庭にある銀杏の最後の葉が、とうとう散ってしまった時だった。私の核である何かが滑り落ちた。私は、二階の自分の部屋に入り、

 俳画道具一式に封をした。

【選 評】

  • この作品を読んでいる現在、ロシアによる残虐な侵略戦争がまだ続いている。世界中に非難と憤怒の声が渦巻くにもかかわらず。戦争は遠い他人事ではなく、いつ身近に起こるか知れない。そして理不尽な悲しみを量産する。この作品もそうだ。おしまいから六行目、「お父さん~」という紀代ちゃんの言葉は何度読み返しても涙腺が緩む。これほど泣かされたフィクションは希有である。

 

  • わずか二歳の時、父が戦死した紀代ちゃんのいじらしさが、うまく表現されています。ただし、タイトルは再考のこと。
作品種類
心斎橋大学ラジオシアター放送作
作品集「炎心」コンクール受賞作
作詞修了作品コンクール
公募受賞作品
修了制作 最優秀賞受賞作品
作品ジャンル
作詞
脚本(ラジオ)
ノンフィクション
小説
エッセイ
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