受講生の作品
受講生の作品
このマフラーを巻くと守り神が現れる。
「一ヶ月です」
主治医が事務的に告げる。突然投げつけられた言葉に、私達夫婦は戸惑い、受け入れることが出来ず、診察室は重い沈黙で凍りつく。
主人の癌が見つかって二年半、抗癌剤も効いて治療は順調だった。その抗癌剤の影響で白血病になるなんて誰が想像しただろう。一ヶ月はあまりにも短い。延命治療をしないと決めていた主人は、目を閉じたまま項垂れ、血の気のない顔が一層白く見える。余命宣告は主治医と私達の間で板挟みのまま、引き取り手を探している。
「家に帰ろう」
私は宣告を受け入れ、主人は何度も小さく頷いた。打ちのめされてどうする。二人だけの家族だから私がしっかりしなければ、主人を一人きりにしない。一秒一秒が宝物だから暗い顔はしない。幸せの詰まった毎日を送ると決心し、病院へ在宅医療を申し出て、翌日家に帰った。
輸血をしない主人の体は、日に日に力を失っていく。主人が疲れて昼寝をした時、私はひざ掛けを編んで過ごした。子猫のチャトランが邪魔をするので、古い毛糸玉を投げてやると、大はしゃぎで追いかけ飛び跳ねる。
「編み物か?いいね」
目を覚ました主人はベッドの背もたれを起こし、何か思いついたのか手招きをする。
「マフラーが編みたい。今すぐ教えて」
私は疲れるからと心配するが、主人はやる気満々。根を詰めないと約束し、二人のマフラー教室は始まった。
レッスン初日、初めて手にする棒針と格闘する主人は、からくり人形のようにユーモラスでぎこちない。
「ダメダメ力入り過ぎ、それじゃ硬いむしろになってしまう。ちょっと貸して」
私は無造作に棒針を抜き、毛糸をほどくと、主人は眉根を寄せる。
「優しい気持ちで糸をかけるのよ」
そう言って、私がゆるく柔らかく編んで見せると、口角を上げ、再び棒針を握る。
主人はもともと手先が器用で几帳面。編み物向きの性格で、翌日からは先生を必要としなくなった。
家の東側は一面が田んぼで、真ん中に細い農道が通っており、車椅子の散歩に最適な小径になっている。私達は毎朝出かけ、お茶を飲んだり、編み物をしたりして、身近なピクニックを楽しんだ。黄色い稲穂がこうべを垂れ、吹き抜ける風は秋の匂いがした。田んぼの脇に咲いた真っ赤な彼岸花、糸のような雄しべがゆらゆら揺れ、線香花火のように美しい。赤とんぼは私達の前を行ったり来たりして、稲刈り時期だと告げている。一瞬一瞬が目の前の朝露のように光輝いて見えた。
チャトランはいつも毛糸玉を狙っている。主人はチャトランを見ると毛糸玉を布団の中に隠す。チャトランは追いかけて潜りこみ、見つけるまで探し続ける。主人が根負けして休憩のお茶タイムとなる。夫婦二人の教室は、絶えることなく会話が弾み、いつからか必要な話しかしなくなっていた、中年夫婦の愛情確認の時間になった。
主人は不思議に痛がることなく編み上げ、細くなった腕で私の首に、赤いマフラーを巻いてくれた。
「会いたくなったらこれを巻いてね。すぐに飛んでくるから。僕の姿が見えないのは残念だけど、傍にいる」
「そう思って編んでたの?でも現れても見えないなら、何か合図してくれなきゃ分からないわ。風が吹くとか、音がするとか、そういう分かりやすい合図をお願いするわ」
マフラーは暖かく、私はこの時間がいつまでも続くように祈った。
しかし、「一ヶ月」はやって来た。年に一度あるかないかの大型台風の夜、吹き荒れる風の音の中、主人は小さな声で私を呼んだ。私は込み上げてくる涙をこらえ、骨ばった手に自分の手を重ねた。
「飛んでくる」
そう言った後、呼吸が大きくなり、明け方台風に吸い込まれるように主人の魂はこの世を去ってしまった。
あれから一年、今日も赤ちゃんを抱くように、手のひらに乗せ、胸にあてた柔らかいマフラー。不揃いのひと目ひと目には、どんな思いも包み込む、優しさと、強さと、愛情が詰まっている。
私はマフラーを巻いて小径を歩く。あの日と同じ秋の朝に、あの日の二人を見た。
「彼岸花、今年も咲いたね」
稲穂が波打ち始める……。
私は一人、色無き風を見送った。