受講生の作品
受講生の作品
ドアが閉まる音が団地中に響いた。俺は階段を駆け下りる。公園をダッシュで抜けたら路地。散髪屋ヒロ、定食屋のかつら亭、喫茶店ポピーが右目に映ってはちぎれていく。
俺は、へとへとになるまで走る。でないと俺は親父をぶっ殺してしまう。走る。帰ってドアを開けた瞬間、ぶっ倒れるくらい。走る。酒臭い部屋の空気も平気で吸えるくらい。走る。酔い潰れて床に転がるあいつを、蹴飛ばす力も出ないくらい。
間抜けな奴だ。いつまでも俺より強いと思っている。中学二年になってから俺はぐんと背が伸びた。腕力だって俺の方がきっと上だ。どんなに殴られたって、ガードするコツも知ってる。そんなことにも気づいていない。
大通り、青信号点滅中。スピードを上げる。渡り切った背中で、車の群れが流れ出した。左に折れてまっすぐ。向こうでピカピカしているのはラーメン屋、金華楼の電飾看板。最後に行ったのは去年の冬、一年前。母さんと。出ていって全然大正解。もう近所のおばさん達に、アザの言い訳をしなくていい。金華楼通過。今日も行列。豚骨スープのにおいが、胃袋を絞り上げて脳みそを突き抜ける。
金華楼から二つ目の角を右に曲がる。右側はよく似た灰色の低いビルが二つ、三つ。前でタバコを吸ってたおっさんが、寒そうに真ん中のビルに引っ込んでいった。俺は、もう汗だく。向かいは洋服屋。マネキンは、ピンクにでっかい花柄のワンピース。母さんなら死んでも着ないやつ。
その隣は酒屋。立ち飲みもやってる。客がいる。まだ四時過ぎなのに。酒のにおい。息を止める。
ホカ弁屋の黄色い看板を左に曲がる。細い路地。薄っぺらなスニーカーの底がパタパタ地面を蹴る。足音に負けないくらい俺は息を吐き出した。後ろからベルの音。自転車が通り過ぎる。茶髪の女の人、前と後ろに子供を乗せている。速い。電動だ。
後ろに乗っているのは女の子か。黄色い帽子から長い髪。こっちを見てる。金魚みたいに、口をパクパクさせて、ハァハァ、走ってる、俺が、面白い、のか、何度も、何度も、振り返って、女の子は、どんどん小さくなっていく。電動自転車。俺の家にはなかった。小学二年の時、団地の階段から落ちた。おでこが切れて大出血。ママチャリの後ろに積まれて、病院に連れて行かれた。泣き喚く俺を何度も振り向きながら、親父が必死でペダルを踏んでいた。
だだっ広い通り。上の高速道路は渋滞中。俺の方が断然速い。歩道脇、左側のでっかいビルに沿って長い上り坂。上半身を前に傾ける。向かい風がすごい。鼻も口も密封される。ウインドブレーカーのフードが、首の後ろで風船みたいに膨らんでる。陸上部の奴らが、今日の風はどうとか、真面目くさった顔で話してた。アホかと笑ってたけど、俺は知った。風の影響力は超絶大。心臓が喉まで駆け上がって、脚はスローモーション。自衛官募集中。ビルの壁のポスター。制服を着た男が、俺を見て笑ってる。自衛官、中卒でなれるのか?向井も平尾も高校へ行くって。俺と同じくらいバカなのに。俺は今、この坂を上るだけ。
やっと。コンプリート。道路の向こうは空き地。雑草だけがぼうぼう。俺の好きな場所。早く渡りたいのに赤信号。足踏みをして呼吸をなだめる。ウインドブレーカーの下で、汗まみれのTシャツが背中に張り付いている。風が吹くたび、ギュンと血管が縮む。
青信号で空き地に突入。ぐるぐる走る。動物を捨てるのは犯罪です。看板の中の猫と目が合う。母さんも団地の前の空き地で、時々エサをやっていた。母さんがいなくなって、猫もいなくなった。俺は、いつか野良猫を連れて帰る。酒の臭いがしない俺だけの部屋に。
もう何周目か。夕陽がぶった切ったみたいに落ちた。信号を渡って、帰りは違うコース。路地だらけで、サラリーマンの障害物。その間を走る。レースゲームみたいに。小学校の頃は、時々ゲーセンに行った。イニシャルD。一度も親父に勝てなかった。湾岸ミッドナイトで遂に俺は勝った。母さんが後ろで手をたたいて喜んでた。
どっかの店から、甘辛い肉のにおい。腹が鳴った。ガス欠。カップラーメン、隠しておいた。あいつが食ってたら、ぶっ殺す。絶対。
団地の階段を一気に五階まで。息を止めてドアを開ける。
俺は倒れなかった。速攻で窓を開ける。限界。顔を突き出して、ぷふぁっと口を開けて思いきり息を吸う。何度も何度も吸う。
カップラーメン、戸棚の奥で無事。湯を注いでやっと心臓が元のリズム。親父は床で転がってる。うつ伏せになって、右手を上げて、左脚を折り曲げて。殺人現場の死体みたいに。
俺はカップのふたをはがし、スープのにおいを嗅ぐ。麺をかき混ぜて全力で啜る。親父の臭い息もいびきも消滅。
とにかく俺は今、カップラーメンを食べる。