受講生の作品
受講生の作品
私は、すかたんである。
人からもよく、「すかたんやなぁ」と言われる。広辞苑によると、『まぬけな見当違いのことをした人をののしって言うのに用いる。すこたん、すかまた、ともいう』とあ
る。
私は、ののしられていたのか。辞書を引いて初めて知り、愕然とした。でも、すこたんや、ましてや、すかまたなんて言われるよりは、まだましかと妙なところで納得する。
子供の頃から私は、チョット変わった子だった。人と思考が違うといえば、エジソンみたいで格好いいが、私は何も発明していない。
通っていた小学校の校歌の一節に、
「~を結び、励まん~」という歌詞があった。
前後の歌詞の意味が理解できていなかった私はそれを、「むすび、ハゲまん」と思っていた。おむすびと、ハゲまんという豚まんみたいな饅頭があるのかと想像していたのだ。
(ハゲの饅頭なんて、どんなんやろう)
校歌を歌うたびに、その未知の食べ物の味と形が、もわもわと私の頭の中を漂った。
中学生の時、地域の運動会で借り物競争に出た私は、(ラムネのびん)と書かれたカードをひいた。運動場のトラックの周りには、大勢の観客がいた。「何が要いるの?」と借り物に協力的な人が幾人も声をかけてくれた。が、私はその声に背をむけ、運動場の端っこでラムネを売っている店に突進した。
「び、びん貸してください。借り物競争で」
血走った目で手を出す私に店主はビビリながらも、「びん、なくなったら困る」と冷たい返事。それでもやっと、びんを借りてゴールへ向かった。ゴールには、まだ誰もいなかった。「やった!私が一番や」鼻息荒く私は、係のおっちゃんにびんを渡した。
「借り物競争はとっくに終わったで。あんな所まで借りに行ってたら、そらあかんわ」
その言葉に私は呆然としたが、私の行動の一部始終を見ていた人達は、もっと呆然としていたらしい。ラムネ屋のおっちゃんが、私が持つびんの行方を凝視していた。
高校生の時は、友人のお世話にもなった。
家庭科の宿題は、スカートの制作。その日は放課後、友人とミシンがある被服室へ行った。長く幅広いカーテンが風で揺れる窓際に、ミシンは置いてあった。
裁縫が苦手な私にとって、ミシンをかけるのは、一発勝負だ。呼吸を整え、「よーい、ドン」とスタートを切った。肩をいからせ、布をミシン針にただひたすら送っていた。
「何してんの?!」
友人の怒声にハッと顔を上げた。あろうことか、私は窓際のカーテンまで、ミシンで縫っていたのだ。風にあおられたカーテンがスカートの生地に重なり、それを私は縫い合わせていた。
その時はさすがに私も顔がひきつり、「私は私を、すかたんと言ってあげたい」と訳の分からないことを、口走っていた。
友人に、「信じられへん」と叱られながら、二人でカーテンを元通りにした。真っ暗になった帰り道、見あげた月を今も忘れない。
すかたんに対して世の中には、すかたん愛好者なるものが存在する。
先のカーテン事件の時の友人がそうだ。お互い孫がいる年齢になったが、今でも親友だ。すかたん愛好者は、すかたんに呆れ、怒り、時々姿を消すのだが、いつの間にかブーメランのごとく、すかたんの元に戻ってくる。
その最たるは、夫である。
夫の場合は、単なる愛好者ではなく、すかたん収集家でもある。私の珍妙な行動の数々に付き合わされてきた彼は、いつの頃からか、それらをコレクションするようになった。
折にふれ、夫はそれらを取り出し、眺め、味わっている。それに耐えるには修業が必要だが、すかたんも悟りを開くと、一つ一つを酒のつまみとして、一緒に笑えるようにな
る。
すかたん愛好者と言えば、兄もその一人だった。
私の家は母子家庭だったので、兄は高校を卒業すると、働きながら夜間大学に通った。教師になり一家を支えてくれた兄は、令和の時代を待たずして亡くなった。
兄は私のすかたんを、お腹を抱え、誰よりも豪快に笑い飛ばしてくれた。しかしその実は、「あいつは大丈夫か」と眼鏡の奥の瞳を曇らせていた、とのちに母から聞いた。
兄が中学生の頃、私と一緒に、十姉妹を飼っていた。兄が鳥かごの掃除をしていた時、その中にいた一羽の十姉妹が逃げ出した。兄は慌てた。「ピーちゃん、帰っておいで」
と叫び、逃げた先の空に向けて鳥かごを掲げた。その拍子に、かごの入り口が開いてしまった。
そばにいた私は、「あっ!」と声を出した。その瞬間、鳥かごの中に残っていた数羽の十姉妹が、すべて大空に向かって羽ばたいた。
後には、空からになった鳥かごを、手から力なくぶら下げている兄の背中だけが残った。
兄も、すかたんだったのだ。