受講生の作品
受講生の作品
鹿児島県の薩摩地方の農村では、現金収入が無く、集落での見舞や、家で執り行こなわれていた法要、結婚式などの付き合い事には金銭の代わりに「義援米」が使われていた。
私が五歳の頃、戦争は激しく、毎日サイレンが鳴っていて、それでも大人達は戦闘機の騒音を聞きながら田畑に出ていた。
農家には、農地の広さで供出米が決められていた。周りでは、家族を守るために、米の収穫量を偽る家々が多い中、父は、決められた供出米を馬で農協に運んだ。
大家族の夕食はいつも麦飯だった。米四合麦六合の米の中から、小さな五勺枡で米をすくい、側の一斗缶に入れた。一ヶ月に一升五合の「義援米」が貯まると祖母は話す。
それでも白米を食べられる日はあった。全ての収穫が終った日の夕食である。
大きな羽釜の重たい蓋のすき間から「ブーブー」とこぼれ出る新米のありがたい匂い、家族は風呂を上がり、円卓を囲んで炊き上がりを待った。卯の花の頃に生えた早苗を、日照りの時も田に腰を屈めて田草を取って慈しみ、黄色になって頭を垂れて、刈り取られた米が今、食卓に乗る。農家が一番しあわせを感じる時でもあった。
夕暮れ時、家の中まで流れ来る野火の切ない匂いは、幼ない私に秋の愁いを教えてくれた。
沖縄が近かった薩摩地方では、敗戦の噂が飛びかい、中でもアメリカ軍が鹿児島に上陸との話に集落は震え上がった。私は緊張で特病の喘息の発作が起きた。発作が起きると空襲警報のサイレンが鳴っても、私は防空壕には入らなかった。壕に入ると咳き込みが激しく息が出来なくなってもがいた。
朝から、度々サイレンが鳴った日の午後、「早く山へ避難して下さい。急いで下さい」と、二人の消防団員が、メガホンを口に、くり返し叫びながら、我が家の横の道を走って行った。
「今度は家にはおられんよ。山に逃げんば。アメリカ軍は人の目を食ぶっとが好きやって。山に避難したくない私を、二女は脅かし、母は私を荷の上に乗せて山に登った。
山には、農具を入れる大きな横穴が数個あり、家族は奥が芋入れになっている穴に避難した。皆が荷を運び終ると、父は馬を連れて家に帰るらしく、早めの夕食になった。
横穴は、竹で編んだ円形の扉を閉めると、暗闇になった。ローソクを囲み、無言でむすびを食べる家族の顔が、離れて寝かされた私の目には、見知らぬ人達に見えた。私はむすびを手に、一人芋の匂いの中で眠った。
空襲警報が解除になって、父が馬を連れて迎えに来たのは四日目の朝だった。
それから三ヶ月。長かった戦争は終ったが農家でも食糧料不足は深刻になり、中でも疎開者の生活は厳しかった。
終戦になって収穫期が近くなったある日、夕食が無くなる出来事が起きた。
翌日に炊く麦が無くなったと母は、精米所へ麦を運び、帰って来ると、いつもより大きい釜で、昼と夕食の麦飯を炊いていた。
持ち手が付いた半円形の丸籠に、夕食分の麦飯を固く丸く盛り上げて、風通しの良い母屋の軒下に風呂敷に包んで吊した。母は、体調の悪い私に、外に出ないように言い聞かせ急いで山へ行った。すぐ、母が引き返した様な足音に、私は寝返りを打って音を追うと、昨夜も風呂を使いに来た
知り合いのおばさんが、先程、母が吊るした麦飯の籠を下ろすのが見え、慌てて起き上がったが、籠も人の影も無かった。母が置いて行った焦げむすびはまだ温かいままだった。
私は不安と動機の中、目覚めては眠りをくり返し夕刻になっていた。
二女のかん高い声に、騒がしさが聞こえてきて、早く伝へようと焦る私の側に、祖母が硬そうな指を口に当てながら座わって、
「あれはな、ばあちゃんが持って行ってよかと言うたたい。こん事あ、誰れにも言わんでよかよ。姉ちゃん達にも黙っとらんばね」
それでも私は母に告げたかった。
「そうよ。ばあちゃんが言うとをり。誰れにも話さんごとて言われんかったね」
と、言った。叱られた気分で布団に戻る私に、二女が珍らしく私の頭を撫でて、
「今夜は銀めしやっど。嬉しかね。義援米で炊く銀めしや。焦げ飯もいっぱい出来でね」
晩秋、何処からともなく漂い来る郷愁の匂い。野火。たちまちに記憶の扉を開けて、私を過去へと帰してくれる匂い。
「人は生きた様に死ぬっでね。南無阿弥陀仏」祖母の言葉は私の耳に住み「義援米」を炊く若い母が目に映る。ひたすらに働く、生き焼けた笑顔の二人への「鎮魂香」でもある。
新米の頃、私は今も焦げ飯を炊く。あの頃と変わらぬ香ばしさを、一人懐かしんでいる。