受講生の作品
受講生の作品
ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されてから約三年、発症から死亡まではかなり個人差があるが、私が完全に〈石〉になる日はそう遠くないだろう。といって、私は自分の人生に絶望しているわけではない。
もうすぐカズミさんがやってくる。
約束の午後二時、玄関のチャイムが鳴った。インターホンで応対する無愛想な妻の声が聞こえて数十秒後、私の部屋の扉が開く。
「こんにちは、ホワイトハンズです」
カズミさんの明るい声が耳に心地良い。
ホワイトハンズは、二〇〇八年に日本で初めて、男性の重度身体障害者の『射精介助訪問サービス』を始めた一般社団法人である。代表理事が住む新潟オフィスを本部に、関東と関西に事務局がある。カズミさんは関西支部に所属する介助スタッフだ。
「お庭の向日葵、わたしよりノッポ」と微笑みながらカーテンを引いた彼女は、鞄から仕事道具を取り出す。
介護用手袋・ローション・コンドームの三点セットだ。
四十を過ぎてこんな身体になるまで、私は『障害者の性』など考えたこともなかった。病気が判明して夫婦生活はなくなった。発症当時は自慰行為もできたが、今動くのは目玉と口だけだ。そんなときに見つけたのがホワイトハンズのホームページだった。サイトのトップに〈私たちの使命は、新しい【性の公共】をつくること〉とある。
性の公共? 私には意味不明だった。
もっともらしい文句で障害者を狙う、新手の風俗業者か。でも他に、選択肢も稼ぎもない今の私にはその料金も魅力的だった。
入会金・年会費無料、三十分二八〇〇円。十五分追加毎にプラス一五〇〇円。
我が家を訪れたカズミさんは、私と同年代の既婚女性で、涼やかな笑顔が秋風に揺れるコスモスのようなひとだった。
一カ月に一、二回利用するようになって半年が経つ。
「では、ケアを始めますね」と、ベッド脇に立ったカズミさんは私の下着をゆっくりと脱がす。半透明のビニール手袋をはめ、洗面器に汲んだ湯でタオルを絞る。熱くないですか、と声を掛けながら、私の陰部全体を丁寧に清拭してくれる。「性の介護」は、いつも、会話をしながら和やかに進む。
カズミさんの本業はエステティシャンだ。医療や介護職の経験も、もちろん風俗業に携わったこともない。ではなぜ、という私の素朴な疑問に「射精介助を特別な行為だと思ったことがないんです。食事や排泄や着替えのお手伝いと一緒。子供の頃、知合いが入院していた障害者施設へよく遊びに行っていて、世の中にはいろんな人間がいる、というのを理屈抜きで感じたことも関係があるのかもしれません」
マッサージローションを馴染ませた両手が陰茎を包んだ。脳がどしんと震える。
「この利用者の七割が脳性まひの男性です。皆さんインテリで紳士ですが、恋や結婚となるとハードルは高いのが現実。四肢麻痺が酷くて自慰もできず、施設や親元を出るまで、何十年も射精したことがないという方も少なくありません」
後天性障害者の私には思いもよらない障害者の性の現実だった。
「性の先進国オランダでは障害者のための性サービスを仲介する団体も複数あって、障害者の性の処理に医療保険の適用を認めている自治体もあります。まさに【性の公共】です」
性をタブー視する日本では相当時間がかかりそうですけどね、と勃起を確認したカズミさんは手早くコンドームを被せた。右手でしっかり握って上下にしごく。動かぬ筋肉の中でそこだけが柔軟に、雄々しくそそり立つ。
「性欲は人としてあたり前の生存本能。特に男性の場合は、性のケアが〈自尊心のケア〉に大きく関わっていると思います」
妻は隣の部屋でボリュームを大きくしてテレビを見ている。そこまでして……と、『射精介助』の定期利用に反応は冷たい。
カズミさんの指先が張りつめた鬼頭をなでた。血流が一点に集中し、呼吸が荒くなる。私は生きている。今、確かに生きている。ほとばしるしぶきに、男としての、一個の生命体としての自信と希望がみなぎる。太陽に堂々と顔をむける大輪の向日葵のように――。
女性一人の訪問でトラブルはないか尋ねると彼女は首を横に振った。服を脱いで、とか胸を触りたいと言う人が時々いるが、このケアはあくまでも介護行為。性的快楽の最大化ではなく最適化が目的。それを理解できない人の利用は難しいでしょうと、私の着衣を整えながら話した。「そうそう以前、喘ぎ声を出して欲しいと言われて。声ぐらいなら、とも思ったんですが、女優さんじゃあるまいし、熱演できそうになかったので丁重にお断りシマシタ」と笑って、カーテンを開けた。
窓越しに向日葵が揺れていた。青空に映えるさやかな黄色が、生きいきと眩しい。