受講生の作品
受講生の作品
手帳占いの坂東さんと言えば、店の客で知らない者はない。環状線沿いの小さな居酒屋。カウンター席の隅っこに座る、人の良さそうな丸眼鏡のおじいさん。それが坂東さんだ。
「竹中さん、あんた九州の生まれやろ。勤め先も今まで、四回も変わっとるな」
橙色の手帳をめくり、板東さんズバリ言う。
「いやあ、よく分かりましたなあ。わたし、実家は鹿児島でして。勤め始めてからは、日本中転々としていました。今の会社は昨年からでして、確かにちょうど四カ所目です」
常連サラリーマンの一人を捕まえ、今日も坂東さん、得意の占いを披露する。同年代のおやじ達中心に、今夜も店は賑わっていた。
「さすがは、市役所で年金の仕事をしてはるだけありますなあ」
ホッケの塩焼きをカウンターに並べながら、大将も話に割って入る。手のひらサイズの手帳には、「年金手帳」の四文字。六十四歳。坂東さんは市役所の、国民年金の窓口で働いている。いわば年金のプロだ。占い師が水晶玉で未来を見るように、板東さんは年金手帳から相手の人生を知る。
「たった十桁の基礎年金番号で、人間の人生が分かるんや。例えば番号が4から始まるのは、みな大阪の生まれ。9から始まるのは、だいたい公務員。前二桁がある数字から始まるのは要注意や。なぜかというとな・・・・・・」
坂東さん、タバコをふかしながら上機嫌に
語る。酒が舌の潤滑油になっているようだ。
年金に詳しい坂東さんだが、この仕事に就いたのは、つい五年前のことだ。五十九歳の頃、坂東さんは実家の農家を手放して、年金事務所で働き始めた。きっかけは単純だった。実は坂東さん、無年金者なのである。金が絡むと人間はすごい。なんとか年金をもらう方法が無いかと必死に調べるうち、なんとそこらの職員よりも年金について詳しくなってしまったのだ。今後も年金という収入が無ければ、生きるために働く必要がある。膝の問題で農家の仕事を続けるのは厳しい。それならばいっそ、調べた知識を活かして、年金事務所で働いてやろうと考えたわけだ。
さて年金と言えば、お年寄りがもらうものだと思っていたが、それだけではないらしい。坂東さん、ある日店で「障害年金」と書かれた本を広げていた。「知的障害」「てんかん」のページに、赤い付箋が重なり分厚くなっている。これは何ですのと、酒の肴に常連客の一人が尋ねる。すると坂東さん、待ってましたとばかりに口元がにやけたが、慌てて平静を取り繕い、もったいぶった口調で説明を始めた。障害年金とは、六十歳未満の若者がもらえる年金だそうだ。大きな怪我や病気で、働けなくなった人が対象になるらしい。坂東さんも障害年金を担当しており、今はある女の子の病気について勉強しているようだ。
「十九歳の可愛らしい女の子でな。坂東さん、坂東さん言うてよく来てくれるんや。お母さんと一緒にな。障害年金を請求できるのは二十歳からやのに。気が早いで、まったく」
口では言うが、その目は優しかった。未婚で孫のない板東さんにとって、その女の子はただの客以上の存在だったのかもしれない。女の子と母親、坂東さんの入念な準備が身を結び、半年後、診断書など全ての書類が整った。あとは、障害年金が承認されるか、日本年金機構の審査を待つだけだ。
三ヶ月後、年が明けた。いつものように坂東さん、店の奥に座っている。が、どうにも今日は元気が無い。
「どうした?有馬杯、あかんかったんか?」
常連客の一人が茶化して尋ねる。
「いや、それは勝った。五千円」
「じゃあ、例の女の子のことかいな」
板東さん、弱々しく頷く。
「障害年金な、あの子通ったんや。えらい喜んでな、先週お母さんと一緒に報告に来てくれたんや。それやのに信じられるか?今日の夕方、回ってきたんや。死亡届がな」
「え、あの子死んだんかいな」
常連客たちがざわめき出す。
「ちゃうちゃう、死んだんはその子やない。母親の方や。母子家庭やったのに、これからどうするんやろか」
常連客たち、今度はじっと黙り込む。知的障害を持った子が、これから一人で生きてゆく。その過酷さは誰の目にも明らかだった。
「あの子はこれから、年間七十万ちょっとの障害年金をもらえる。でも、それだけや。年金手帳は残酷なもんやで。たった十桁の番号で、わしはあの子の家族構成も、所得も病名も、みな分かってしまう。どれだけ苦労してるかも知ってしまう。なのにこれ以上何も出来へん。ほんま、辛いことやで」
酒のせいか、坂東さんの指は震えていた。他人の年金番号を知ってしまうには、坂東さんは少し、優し過ぎるのかもしれない。大将が黙って、温かいかす汁の準備を始める。老体には、今宵の風がちと冷たいようだ。