受講生の作品
受講生の作品
「なんべんも云うで。わたしはあんたの娘や」
雪乃は床にこぼれたお茶を拭きながら、「お義母さん、堪忍やでえ」と謝る母に向かって思わず苛々とした声を出した。眼を伏せた母の、長いまつ毛の音がぱしゃりと聞こえてきそうだった。父の不服そうな目線に気づくと、雪乃の頬がかっと熱くなった。
母の記憶から雪乃の存在が消えて数年が経つ。五年前に亡くなったイケズの祖母を覚えていることも、その祖母と雪乃を勘違いしていることも腹ただしいが、父の悋気な性格にあれほど苦労した母が、いまは子どものように甘えていることが悔しかった。
発病後の母への、人が変わったような父の献身ぶりには感心している。だが母の過去を思うと、どうしても簡単に父を許してなるものかと雪乃は思ってしまう。
わたしも働くからお父ちゃんとは別れたらどないやの、あの短気な性格はどもならん、過去に何度もそう云ったことを雪乃は思い出す。だが母は決して首を縦には振らなかった。あの時、母はわたしになんて云ったんだったっけ。
若年性であると診断された母の病に根本的な治療法はない。時間は残酷に母を違う世界に連れ去るばかりだ。大好きなお母ちゃんがお母ちゃんではなくなっていく。それが辛かった。母が一人娘を忘れたのは、子育てを理由にして実家を避けたことの罰だろう。そうなら、責めるべきはきっと父でも母でもない。
「晩ご飯はお好み焼きでええか」
父はそう云うと、雪乃の返事も聞かずにきしむ階段を下りて行った。
雪乃の父が営む小さなお好み焼きやは、もともと祖父母が始めた店だ。祖父が亡くなった時、料亭で板前をしていた父は仕事を辞め、店舗二階住居の実家へ、母と雪乃を連れて戻った。
客が思わずみとれてしまうほどに美しい母と、母に常に眼を光らせていた父。母の容姿は逆に営業妨害や、と嫌みを云う祖母の三人に囲まれて、雪乃は成長した。
樺太が見える港町で育ったという母の生い立ちはよく知らない。故郷から逃げるように単身大阪に出てきたと聞いている。近所の人が噂するように、母にはきっとガイジンさんの血が混じっているのだろう。家族の中でわたしだけがこんな顔やったから、とうつむく母の話が本当ならば、子ども時代の母の辛苦は聞かなくてもなんとなく想像がつく。
「お母ちゃん、下へ行こか」雪乃が手を引くと、「お義母さん、どうもすんまへん」と母が云った。雪乃の口からため息がもれた。
二階でも食事はできるが、閉めてから店で夕食を済ませた方が後片付けは楽だ。鉄板の前に母を座らせると、洗う前の里芋みたいな顔やと客にからかわれる父と、外出しなくなって透明な白さを増した母を見比べた。
雪乃が小皿と客用の箸を手早く並べると、「ご飯も欲しい」と母が幼子の声を出した。
店の茶碗に雪乃が手を伸ばすと、「それやとあきまへん」と突然母が荒々しく云った。
「悪いけどなあ、上からお茶碗取って来てくれへんか」
困惑顔の雪乃に父が云った。
「めおと茶碗のやつや。最近あれやないとお母ちゃんご飯食べてくれへんねん」
結婚して間もない頃、祖母が近所の閉店セールで買って来たという安っぽいめおと茶碗。雪乃は高校生の頃、父と祖母に大人しく従う母の姿に腹をたて、押し入れの奥の方に茶碗を隠してしまった。いつ見つけたのだろう。
「お義母さんが、買うてくれはったのでご飯を食べたいねん」
雪乃の腕にすがったかと思うと、母は突然ごくりと首を垂れた。最近では気づくと眠っていることも多い。肩を揺すろうとして雪乃は驚いた。母の眼から涙がこぼれていた。
「この家に嫁に来れてなまら良かった。めんこい子どもも授かって、わたしは幸せ」
昔の話をする時だけ、母の言葉には時折故郷の訛りが混じることがあった。
「お母ちゃんはわたしのこと覚えてるんか」
そう呟いた雪乃に父は、「当たり前やろ」と云ってお好み焼きを慣れた手つきでひっくり返した。
「うちの子はめんこい、ていつも言うとる」
なに云うとんねん。里芋おやこやて、さんざん周りにからかわれてきた娘やないか。
「お茶碗取って来るわ」
階段をのぼりながら、雪乃は静かに鼻をすすった。父に聞かれたくなかった。
――家族に苦労すんのは当たり前や。大事なんは、身になるかそうでないかやねん。子どものあんたには、まだ分からんやろ。
ああそうや。お母ちゃんはあの時わたしにそう云うたんやった。
「娘の出る幕やない、ってことか」
雪乃は独り言ち、色褪せためおと茶碗をふたつ棚から取り出すと、そっと両手で持った。