受講生の作品
受講生の作品
今年も秋が近づいてきた。毎年この季節になると、教室の講師机の中にあるひざ掛け毛布を出して陽に当てる。日光の中に漂い舞う細かい繊維を眺めながら、私はいつも原点に立ち戻る。
二十年前、小さな英語塾を始めた。離婚して実家に戻った直後の四月のことだった。家でじっとしているのも辛く、何か始めたいと思ったのがきっかけで、計画も企画もないまま地域の月刊情報誌に広告を出した。
「英語教えます(幼稚園児から大人まで)」
短い文のあとには、名字と電話番号だけしか載せていない、全く具体性に欠ける広告だ。地域の情報誌は文字数で広告掲載価格が決まる。財布と相談したらこれが限界だった。当時はまだ携帯電話も普及しておらず、広告には実家の電話番号を載せていた。情報誌が配布された日、私は電話の前に座り込んだ。一本もかかってこなかったらどうしよう。だけど、かかってきたらどうしよう。鳴らない電話のそばで待ちくたびれた頃、暗くなり始めた部屋にベルが鳴り響いた。
電話は中学生の母親からだった。学校でも塾でも英語の授業についていけていない息子を通わせたいとの相談だった。
何の準備もしていなかった私は、慌てて地域の集会所を借りる手配を済ませ、教科書を準備した。
次の週、母親に連れられてその男子中学生はやってきた。金色に近い前髪を長く伸ばし、こちらからはほとんど目が見えず、表情がわからない。彼だけを教室に通し、向き合った。
「英語、好きちゃうの」私が聞く。
「嫌いや。全然わからへん」
前髪の奥からちらっとこちらを窺い、見かけによらない、人懐こい一面をみせた。
(結婚してすぐに子どもを産んでいたら、このぐらいの子どもが私にもいたのかな)
そんな後悔にも似た哀切の思いが込み上げてくる。
「なあ、協定、結べへん」
駄目もとの提案だった。そもそも「協定」という言葉が適切な使い方だったかどうかもわからない。けれど彼は意外にも興味を示した。
「私が言うことをきっちりやってくること。そしたら絶対、山川くんの得意科目は英語になる。保証する」
彼は伏せ目がちに口元を緩め、軽くうなずいた。
馬が合う、とはこういうことをいうのかもしれない。口数は少なくぶっきらぼうで、何を考えているのかよくわからない。それでも山川は私との約束を守り、半年ほどすると、確かに英語は彼の中で最も得意な科目となった。
もちろんその半年間が順風満帆であったはずはない。何度も家まで迎えに行った。何度も机を叩いて怒り、何度も「こんなん協定になれへんやん」と怒鳴った。その度に山川はふてくされ、その度に私は諦めかけた。でも何故か心の片隅にある彼への期待が消え去ったことは一度もなかった。山川も、投げやりになることはあったが、決して私から離れていかなかった。
冬休みに入ったころ、いつも通り山川は集会所にやって来た。椅子に座ると、通塾カバンから赤いリボンのついた包みを取り出し、素っ気なく私に手渡した。開けてみると、出てきたのはクリスマス模様の大判のひざ掛け毛布だった。
「あんた、これ…」
それ以上言葉が出なかった。涙が湧きあがってきたが、生徒の前で泣きたくなどない。私はそのひざ掛け毛布で顔を覆った。
「先生、顔に使うん違うで」
山川の優しさに気付いていないわけではなかった。教室に一つしかない電気ストーブを山川の足もとに向けると、「オレ、さむないって」と足で突き返す。そう言いながら次の日には、もこもこの重ね着でやってくる。そんな山川が、冷えてくるとこっそり腿を擦る私に気付かないはずもない。
「ありがとう」
すすり上げながらやっと私が言うと、彼は照れたように微笑んだ。
「小遣いで買ってんからな」
「わかってるよ」
私は泣きながら笑った。
集会所から始まった英語塾は、今では駅前ビルの一階フロアを借り、受付と教室を展開するまでになった。冷暖房完備で、もうひざ掛けは必要ない。それでも冬になると、私はこのひざ掛け毛布を腰に巻く。生徒たちは「ぼろぼろやんか~」とか「ダサい~」とか口々に騒ぐ。毎年、年末に顔を見せにくる山川も「いい加減、捨てて下さいよ」と呆れ気味だ。だけど捨てるわけにはいかない。無計画でぼんやりと生きていた私に、講師としての自信と力を与えてくれたこのひざ掛けは、私の原点だ。これからもきっと頑張れる、そんな思いを湧きあがらせてくれる原動力である。