受講生の作品
受講生の作品
「悪かったわね」
三年前、入院中の母を見舞った私に、母はポツリと言った。亡くなる一ケ月前のことである。母の口から初めて出た私への謝罪の言葉だ。そのひとことに、長年の母の思いが凝縮されている。わかっているのに、私は終始無言であった。
■出生の真実を知って
東京に住んでいた母と、私は薄い縁だった。戦後まもない昭和二十三年、仕事で大阪に赴任していた両親のもと、私は双生児の妹として生まれた。だが、生まれてすぐ私だけ大阪に養子に出された。
私が出生の真実を知ったのは、中学三年のときである。高校受験を控え、取り寄せた戸籍謄本を見ると、そこには”養女”の二文字が記されていた。そして、見知らぬ父と母の名前も目にする。それが何を意味するのか、中学生でも十分理解できる。私は愕然とし、大きなショックを受けた。
以来、私は実の親に捨てられたという痛恨の思いを引きずって生きてきた。その半面、実の親に会いたい気持ちは強く、特に自分を生んだ母への思いはつのる。しかし、養父母の手前、実の親についての話を誰に聞くことも叶わず、所在を探す手立てはなかった。
結婚して養子先を出た二十一歳のとき、夫の尽力で実の両親の所在が判明した。ふたりとも健在で東京にいるという。私はすぐにでも会いに行きたかった。しかし、そのときの私は六ヶ月の身重。心身の負担を心配した夫は、私に上京を思いとどまらせ、私は泣く泣くはやる気持ちを抑えるしかなかった。
その後、諸般の事情に見舞われ、二年後にやっと両親に会うためひとり上京した。夢にまで見た母、家族たちとの対面。だが、両親は私を両手で受け入れようとはしてくれなかった。父母からは期待していた反応や、謝罪の言葉もなく、私の思いは完全にはぐらかされてしまった。長年のうっ積した気持ちを吐露できないまま帰阪するしかなかった。失意に打ちひしがれ、二度と自分から求めていくまい、と誓った。
■返事ができないままに
その後、東京の家族と音信不通のまま二十三年が過ぎていたある日、突然、東京の姉から電話があった。父親の葬式の知らせである。それがきっかけで、母や姉たちとかたちだけの付き合いが始まる。しかしそれも、法事で会うぐらいの、実に淡々とした関係でしかなかった。
母が傘寿を、私が還暦を迎える年齢になっても、ふたりの空白の歳月は埋められない。母は私への負い目があり、私は頑なに心を開こうとしない。会えば互いに緊張し、会話もぎこちなくなる。双方には拭いきれない心の壁があった。
そうこうするうちに、母ががんを患い、入院をした。母を見舞うために上京し、病室を訪れると、母は穏やかな表情で私の姿を目で追う。私と目があうと、かすかに口元をほころばせた。心の中では私が来るのを待っていたふうである。
母のベッドの両サイドに私と姉が立って、母の様子を見守っていると、母が両手を伸ばしてふたりの手をとった。それぞれの片手を自分の胸の上に置いて、ふたりの手を重ね合わせた。私たちは母のなすがままにまかせて、母の顔をじっと見つめた。
「悪かったわね」
母は目をつむったまま、静かに言った。その言葉は、おそらく私に向かって言ったのだろう。六十年前、私を養子に出したことを、母は私に謝っているのだ、と思った。
返事をしてあげなくては……。頭ではわかっているが、とっさに言葉が出てこない。ひとことでもよかった。だが、私にはまだわだかまりが消えていなかった。
「ふたりとも仲良くね」
母は続けて諭すように言った。そして、私と姉の重ね合わせた手の上に、母は自分の両手を包み込むように置いた。母の冷たい手の感触が、私の胸を熱くさせていく。私と姉は無言である。まるで、母のひとり芝居のように思えて、母が哀れだった。
*
母が亡くなり、今になって、きちんと答えてやれなかった自分が悔やまれる。
「悪かったわね」のあと「気にしないで、もういいのよ」と言ってあげるべきだった。「仲良くね」のあと「安心して、仲良くするから」と言えばよかった。
ふた組の両親の狭間で、素直になれなかった私だったが、もう何もかも過去は風化していった。病室でのあの日の光景を思い出すと、私の胸は痛む。そんなとき、「もういいのよ」と亡き母に向かって、心の中でつぶやいている。