小説家、放送作家、脚本家、児童文学作家、絵本作家、構成作家の養成スクール、大阪南船場の心斎橋大学へ。

公募受賞作品

心斎橋大学の受講生の皆様は、講師陣のアドバイスをもとに、公募にチャレンジされています。
嬉しいご報告の中から、一部をご紹介させて頂きます。


心斎橋大学 修了制作 最優秀賞受賞作品

心斎橋大学では、毎年すべての受講生を対象に、藤本義一総長より修了制作課題が与えられます。
提出された作品は、関西放送作家協会関西支部の作家陣により審査されます。
ここでは、多くの作品の中から最優秀賞を受賞された作品をご紹介致します。



公募受賞作品

  ひばり 柳 霧津子(産経新聞夕焼けエッセー 2011年6月月刊賞受賞)

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 ひばりの声が降ってくる。兵庫県加西市にある神戸大学の食資源教育研究センター。泥まみれで田植えするのは農学部の生徒たち。普通の田植えではない。教員指導のもと、酒米や食用の苗を4000種以上も植えるのだ。
 実際の農業に役立つ品種改良や、市場に出荷できる品質が目標なので、皆真剣だ。お気楽体験気分で訪れた私は、気後れしながら田を見渡す。
 男女20人ほどが、プールのコース分けのように張られたロープに沿って、品種ごとにていねいに手植えしていく。コシヒカリなどの見知った銘柄以外に、Fの何番と書かれた札がずらりと並ぶ。先生のご厚意で「失敗してもいいエリア」で植えさせてもらった。
 苗は細くて短く、なんとも頼りないが、どれも未知の可能性を秘めた米の子だ。緩い土にまっすぐ挿すのは意外と難しい。吸い付く泥に足をつかまれ、宙をかいてあぜ道に尻餅。学生に笑われた。
 敷地内には昭和18年、優秀なパイロット育成のために造られた鶉野(うずらの)飛行場跡がある。全国から集められた17歳から25歳までの若者たちが、ここで飛行訓練を受けた後、各航空隊へ配属され、その多くは空に散った。
 平成の今、同じ年頃の若者たちは「未来の米」を育てる。時代時代の礎があって、次代が紡がれていく。
 帰り際、学生たちに声をかけた。「日本野農業を下支えしてね」「はーい。」明るい笑顔が頼もしい。
 上空では小型飛行機のようなひばりが、歌いながらホバリングしていた。

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  もういいのよ 北 恵美子(第42回PHP賞受賞)

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 「悪かったわね」
 三年前、入院中の母を見舞った私に、母はポツリと言った。亡くなる一ケ月前のことである。母の口から初めて出た私への謝罪の言葉だ。そのひとことに、長年の母の思いが凝縮されている。わかっているのに、私は終始無言であった。

■出生の真実を知って

 東京に住んでいた母と、私は薄い縁だった。戦後まもない昭和二十三年、仕事で大阪に赴任していた両親のもと、私は双生児の妹として生まれた。だが、生まれてすぐ私だけ大阪に養子に出された。
 私が出生の真実を知ったのは、中学三年のときである。高校受験を控え、取り寄せた戸籍謄本を見ると、そこには”養女”の二文字が記されていた。そして、見知らぬ父と母の名前も目にする。それが何を意味するのか、中学生でも十分理解できる。私は愕然とし、大きなショックを受けた。
 以来、私は実の親に捨てられたという痛恨の思いを引きずって生きてきた。その半面、実の親に会いたい気持ちは強く、特に自分を生んだ母への思いはつのる。しかし、養父母の手前、実の親についての話を誰に聞くことも叶わず、所在を探す手立てはなかった。
 結婚して養子先を出た二十一歳のとき、夫の尽力で実の両親の所在が判明した。ふたりとも健在で東京にいるという。私はすぐにでも会いに行きたかった。しかし、そのときの私は六ヶ月の身重。心身の負担を心配した夫は、私に上京を思いとどまらせ、私は泣く泣くはやる気持ちを抑えるしかなかった。
 その後、諸般の事情に見舞われ、二年後にやっと両親に会うためひとり上京した。夢にまで見た母、家族たちとの対面。だが、両親は私を両手で受け入れようとはしてくれなかった。父母からは期待していた反応や、謝罪の言葉もなく、私の思いは完全にはぐらかされてしまった。長年のうっ積した気持ちを吐露できないまま帰阪するしかなかった。失意に打ちひしがれ、二度と自分から求めていくまい、と誓った。


■返事ができないままに

 その後、東京の家族と音信不通のまま二十三年が過ぎていたある日、突然、東京の姉から電話があった。父親の葬式の知らせである。それがきっかけで、母や姉たちとかたちだけの付き合いが始まる。しかしそれも、法事で会うぐらいの、実に淡々とした関係でしかなかった。
 母が傘寿を、私が還暦を迎える年齢になっても、ふたりの空白の歳月は埋められない。母は私への負い目があり、私は頑なに心を開こうとしない。会えば互いに緊張し、会話もぎこちなくなる。双方には拭いきれない心の壁があった。
 そうこうするうちに、母ががんを患い、入院をした。母を見舞うために上京し、病室を訪れると、母は穏やかな表情で私の姿を目で追う。私と目があうと、かすかに口元をほころばせた。心の中では私が来るのを待っていたふうである。
 母のベッドの両サイドに私と姉が立って、母の様子を見守っていると、母が両手を伸ばしてふたりの手をとった。それぞれの片手を自分の胸の上に置いて、ふたりの手を重ね合わせた。私たちは母のなすがままにまかせて、母の顔をじっと見つめた。
 「悪かったわね」
 母は目をつむったまま、静かに言った。その言葉は、おそらく私に向かって言ったのだろう。六十年前、私を養子に出したことを、母は私に謝っているのだ、と思った。
 返事をしてあげなくては……。頭ではわかっているが、とっさに言葉が出てこない。ひとことでもよかった。だが、私にはまだわだかまりが消えていなかった。
 「ふたりとも仲良くね」
 母は続けて諭すように言った。そして、私と姉の重ね合わせた手の上に、母は自分の両手を包み込むように置いた。母の冷たい手の感触が、私の胸を熱くさせていく。私と姉は無言である。まるで、母のひとり芝居のように思えて、母が哀れだった。

 母が亡くなり、今になって、きちんと答えてやれなかった自分が悔やまれる。
 「悪かったわね」のあと「気にしないで、もういいのよ」と言ってあげるべきだった。「仲良くね」のあと「安心して、仲良くするから」と言えばよかった。
 ふた組の両親の狭間で、素直になれなかった私だったが、もう何もかも過去は風化していった。病室でのあの日の光景を思い出すと、私の胸は痛む。そんなとき、「もういいのよ」と亡き母に向かって、心の中でつぶやいている。

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  もうちょっと 北 恵美子(第39回PHP賞受賞)

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 一九七二年三月。春の彼岸は過ぎたというのに、いつまでも寒さが長引いていた。
 窓の外には時折、淡い雪が舞っている。私は夫の病室にいた。夫の病状は重く、相部屋から個室に移って一ヵ月になろうとしていた。
 数週間前、私は夫の担当医師に呼ばれた。
 「ご主人の肝性昏睡(かんせいこんすい)※の状態は、このままもったとしても、あと一ヵ月ぐらいでしょう」
 私は自分の耳を疑った。
 私の傍らのベッドには、物言わぬ夫が眠っている。個室にひとり、取り残された感覚だった。いつまでこうしているのだろうか…。私は心細さと絶望感にさいなまれていた。夫は既に意識がなく、今にも消えそうな生命を人工呼吸器と点滴で何とか繋いでいるだけだった。

※肝臓の機能低下によって引き起こされる意識障害

■夫の退院を待ち望んで

 一九七〇年一月、私たちは結婚した。恋愛結婚だった。私の家に複雑な事情があり、紆余曲折はあったものの、何とか結婚にまでこぎつけることができた。その年の秋には出産の予定もあり、私たちは幸福な新婚生活を送っていた。
 夫が体調不良を訴えたのは夏の終わりだった。病院で検査を受けると、B型肝炎と診断された。私のお産を一ヵ月後にひかえ、さぞかし不本意だったろうが、夫は即入院を余儀なくされた。
 しかし、「若いから、すぐに治って退院できるよ」と周囲も私たち夫婦も、さほど深刻には考えていなかった。
 夫不在の寂しさにもめげず、私は無事、長男を出産した。結婚して初めて迎えた正月は、外泊許可をもらった夫が三日間だけ帰宅した。親子三人、人並みに家族の雰囲気を味わうことができた。だが、その翌年の正月が来ても、夫は退院できなかった。
 さすがに、夫も私も気持ちが焦ってきた。回復はかんばしくなく、一進一退だった。
 「別の治療方法を検討するため、肝細胞の一部を採取したい」と、担当医師は私に手術の許可を求めてきた。私は期待を込めて、承諾した。
 だが、手術後、夫は麻酔から覚めなかった。体力が落ちて肝硬変が悪化し、肝性昏睡を起こしたと説明された。為す術もないらしいことは、医師の表情から読み取れた。夫の一年半にも及ぶ闘病生活は、一体、何だったのか。私は悔しさと悲しみに打ちのめされた。

■思いがけない言葉

 私はひとり病床の夫を見つめていた。すると、病室のドアをノックする音が聞こえた。病室を出ると、そこにはSさんの姿があった。
 Sさんは私が結婚前まで勤めていた職場の先輩である。私より七歳年上で、結婚後は東京に引っ越していた。働いていた三年間、私はSさんによく可愛がってもらった。兄弟姉妹のいない私は、Sさんを本当の姉のように慕っていた。
 「心配でじっとしてられなくて来たのよ」
 Sさんは私の顔を見て、開口一番に言った。
夫の病状は手紙で知らせていたが、まさか、東京からわざわざ大阪の病院まで来てくれるなんて…。思いがけないことで無言のままの私に、Sさんは言葉を続けた。
 「あんた、もうちょっとやから、気丈になってがんばるんやで。もうちょっとやからね」
 どの見舞い客からも聞いたことがなかった「もうちょっと」という言葉。大抵の見舞い客は、「お大事に」と言った。
 月並みな言葉では到底救われないくらい、私の精神は極限に達していた。Sさんはそれを離れていても分かってくれていたのだ。
 Sさんの「もうちょっと」という言葉が、私の心の中にストンと入った瞬間、涙がこぼれた。必死に押さえていたあらゆる感情が、堰(せき)を切ったように溢れた。
 (たったひとりでた大変だよね。泣きたいだけ泣きなさい)
 Sさんの目はそう言っていた。
 臨終の近づく夫のそばで、ひとりで耐えるしかなかった私。自分を支えないと崩れる、と踏ん張っていただけなのだ。心から甘えさせてくれるSさんが目の前にいる。私はSさんにすがってワァー、ワァーと泣いてしまった。
 彼岸桜もすっかり散って、次の桜がほころび始めた四月の初め、夫は逝った。一歳半の息子と私を残して。まだ二十八歳だった。
 私は生まれて初めて喪主をつとめた。二十三歳で未亡人になった。通夜と告別式の二日間、(もうちょっと、もうちょっとだけがんばるんや)と、Sさんの言葉を自らに言い聞かせた。本当はがんばらなくても、泣いて取り乱してもよかったのに…。可愛げのない妻であり嫁であると人の目には映っただろう。頼る人のいない身が、私を頑(かたく)ななまでにそうさせていた。

 あれから三十七年。息子を育てることが唯一の心の支えだった。息子は自分の父親が亡くなった齢(よわい)を十も越え、一人前の社会人になった。片意地を張って生きてきた私も、還暦を迎えた。
 私の半生で一番辛かった出来事は、最愛の夫との別れである。孤独に耐え、不安におののいていた日々。しかし、Sさんの「もうちょっとやから、がんばるんやで」の言葉に励まされ、その言葉はいつまでも私の心に残っている。
 辛いことがあるたびに「もうちょっと」と言い聞かせてみる。すると、まるで呪文のように私は救われるのだ。



   もうひとつの故里 北 恵美子(難波利三・ふるさと文芸賞 特選)

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 四十年前、初めて夫の故里”倉吉”を訪ねた。新婚旅行である。付き合っていたとき、夫から「出身は倉吉だ」、と聞かされた。関西に住んでいる私には、とっさに都道府県名が浮かばない。「えっ?」と聞き返すと、「鳥取県だよ。岡山の倉敷とよく間違われるけどね」と笑った。どんなところか行ってみたい、行先を山陰にしたのは私の希望だった。
 大阪で挙式後、皆生温泉に一泊。列車で米子から倉吉に向かう。スクリーンのように車窓に映る白銀の世界。真冬の空はラッキーなほど青い。雪の大山が見える。「わあー、きれい!」、はたちの私は子供みたいに歓声。上井駅(今の倉吉駅)に着く。”彼の故里にきた”そう思っただけで胸が熱くなった。目に写るすべての風景が新鮮で心が躍る。だが、夫とふたりで故里の土を踏んだのは、そのとき限りとなった。新婚まもなく、夫は病気で入院し、二年近い闘病の末他界した。二十八歳だった。
 私は一才半の息子を連れ、自分の実家に戻る。倉吉でひとり暮らしの義父は大阪の義兄宅に移り、墓も大阪へ。夫は今、北摂の霊園に眠る。夫の故里への足は遠のいてしまった。三十七年間、訪れることもなく・・・。
 「還暦旅行、ひとりでは寂しいから、付き合ってよ」、息子を誘った。還暦は口実。本音は一緒に倉吉へ行きたかった。息子に父親の故里を見せたい。記憶のない父親と結びつく何かを感じてほしかった。
 「お母さん、おめでとう!」
 私の六十歳の誕生日は、三朝温泉の宿で迎えた。思えば切なくなるが、この五日後は夫の命日だ。笑顔で祝ってくれる息子の顔が亡き人とだぶる。父の享年を十歳も超えた息子が頼もしく見えた。
 「この辺りかと思いますが・・・」
 タクシーの運転手さんが路地の前で車を止めた。夫の実家があったらしい町内を回ってもらっているが、私は思い出せない。
 「この川を境に校区が分れていて、ご主人様はたぶん”明倫小学校”に行かれたと思いますよ」
 運転手さんの機転で思いがけない場所へ案内してもらった。夫の通っていた小学校の校舎が現存しているとは・・・。
 戦前に建てられた円型木造校舎の前に立って、まじまじと眺める。らせん階段のある三階建ての校舎は、当時としてはかなりモダンだ。窓の木ワクも昔のまま残っている。頭の中で小学生の夫の姿が見え隠れした。
 「うわあー!」、ふたり共興奮して、思わず声をあげた。
 夫の故里は脈々と生きていた。はるか遠い過去のものではなかった。今も、これからも私と息子の心のよりどころとして、夫はかの地へといざなってくれている。



   ハゴロモジャスミン 加藤 雅子(ノボ ノルディスク 糖尿病エッセイ大賞優秀賞受賞)

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香りが勝負の花「ハゴロモジャスミン」
春になると清楚な白い花をたくさんつける。生命力にあふれ、勢いよく育つ姿が好き。
私は毎年、この花を庭いっぱいに咲かせる。

重さ60グラム、長さ162mmのペン型の注射器が、今、わたしの手の中にある。7年前から、わたしの命を支えてくれているインスリン注射器である。
ある日のレストラン。テーブルの下でゴソゴソと注射の空打ちをしようとしたが、薬の量の単位設定に失敗。いつもより多めにインスリンを空中に飛ばしてしまった。
普段は感じないのにこの時は、ツンとする匂いがあたりに漂った。「香りが勝負の花」の匂いに似ていると、そのとき思った。大切なものに名前をつける癖のある私は注射器を「ハゴロモジャスミン」と名づけた。

1999年夏、ダイエットもしていないのに体重がひと月で12キロも減ってしまった。
鏡に映る自分の顔が見えないほど目がかすむ。体が異常にだるく、歩くのもやっとの状態になり、病院を受診した。診察室で若い医師が、乾いた声で言った。
「1型糖尿病です。これからずっとインスリンを打ち続けなくては生きて行けませんよ。すぐに入院を……」
医師から病名を告げられ、死の縁に立たされた。不気味な空気が私を包み、驚きと不安で体が震えた。医師の横に立つ、若い看護師は私に目を合わせない。深刻そうな彼女の表情が、私の病の重さを語っている。

院内の糖尿病教室で合併症の恐ろしさを知った。初めての自己注射では、なかなか針を刺す勇気が出なかったが、やってみると案外簡単だった。注射の痛みにはすぐに慣れた。
だが、予測がつかない血糖の動きに神経がすり減っていく。ガリガリの体を病院の浴室で人から見られるのが、嫌でたまらなかった。浴槽に体を沈めると肉の削げた骨盤の骨が、直接当たるようで痛い。鎖骨に手をやるとメダカを飼えそうなくらいの陥没度。
トイレの鏡で久しぶりにまじまじと自分の顔を見た。輝きのない瞳、痩けた頬、他人の顔になっていた。

退院して1年半が過ぎた。医師から指示を受けた厳しい食事制限を守り、努力しているのに血糖コントロールは、うまくいかなかった。体重はちっとも増えず、胸のあばら骨は見えたまま、生理も止まったままだった。摂食障害を起こし、精神的、肉体的にも極限状態だった。
2000年10月、同じ1型糖尿病を持つ開業医、南昌江先生のことを知った。私は早速、福岡市にあるクリニックを訪ねた。
「1型糖尿病でも何でも出来ますよ」
先生の声はほっこりと丸かった。涙が頬をつたい、カチカチだった心が柔らかくなっていった。闇の中、険阻な坂道に立ちすくむ私の前にポッと暖かな灯りがともった。
個人の生活に合わせたインスリン療法の指導を受け、窮屈だった生活が一変した。同じ病気の仲間もたくさん出来た。運動時の血糖コントロールは容易ではないが、ストリートダンスを踊る壮快な時間も蘇った。

体重も少しずつ増え、半年で元通りになった。生理も始まった。やっと女性に戻れた!その日は赤飯を炊いてお祝いをした。
走ることが苦手で子どもの頃、徒競争はいつもビリ。マラソンなんて、テレビの前でゴロゴロしながら見るものだと思っていた私。
南先生が数年前から参加、完走をされているホノルルマラソンに興味を抱き、私も挑戦してみよう! とトレーニングをはじめた。

一日目はフーフーいいながらやっと10分走っただけ。それが地道に練習を重ねていくうちに3時間もノンストップで走れるようになった。足のマッサージを受けていると「いい筋肉ですね」心電図をとると、「スポーツ心臓なみですね!」とほめられる。鍛えあげた自分の体を見るのは、痛快な気分だ。
トレーニング中のひどい低血糖症で不安に陥ったこともある。が、途中であきらめ、自信をなくすことが怖かったから、必死で走った。先生と一緒にゴールの感動を味わいたい!の一心で目標の700キロを走りきった。食らいついたら、絶対に離さないスッポンのような根性を私は手に入れた。

2004年12月、初ホノルルマラソン。途中、低血糖症で苦しんだが、5時間42分で完走。翌2005年は体調を崩すことなく、5時間13分で完走した。2006年も南先生や仲間と三度目のホノルルマラソンのゴールを目指す。潔く強い自分に会うために。

今、私は1型糖尿病と共に生かされている。一瞬、一瞬が。一日、一日が重くて愛しい。
注射を打って「ハ・ゴ・ロ・モ・ジャ・ス・ミ・ン」と唱え、おなかに差した針を離す。
すると、いい香りが体中に広がり、力がみなぎってくる。なんとも不思議だ。



心斎橋大学 修了制作 最優秀賞受賞作品

 2015年度(29期)「痕跡」 入江 昭彦

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  カッターシャツに黒のベストとズボン。帽子と極薄の手袋を装着し、颯爽と現れた男。精悍な顔つきの奥に、人を慈しむ心が詰まっていそうな彼の人柄を、私の心は瞬間的に捉えた。 私の取材に、仕事をしている瞬間の「姿と想い」を伝える為、あえてこの姿で臨んでくれたのだ。「僕の仕事の信条は、一切の痕跡を残さない事。例えどんな状態になっていようと、昨日の形跡を一切消し去り、今日の為に真新しい人生の舞台を作り上げる。自分は一流のプロファイラーだと自信を持っている。プロファイリングする事で、手際よく間違いなく昨日の痕跡を消し去り、真新しい今日の舞台を作り上げられるから」彼は何者か? 仕事で痕跡を残さない事を信条としているが、決して法を犯す事を生業としているのではない。一流のプロファイラーだが、警察関係や心理学者でもない。舞台を作り上げる仕事だが、テレビ局の大道具担当でもない。その正体は、中谷輝一 四十三才。
清掃のプロフェッショナル。
大手清掃会社社員。彼は二十年来、会社が委託されたホテルの客室清掃の責任者として、五十名からの部下を率いている。
「今日、宿泊されるお客様の目的は旅行、記念日、出張、癒しの為など様々ですが、どれも大切な一日で、かけがえの無い時間をこの部屋で過ごす。その人達の物語の舞台が部屋に入った瞬間に幕を開けます。そこにもし、前日の宿泊者の靴下がベッドの脇に落ちていたら。冷蔵庫にペットボトルの蓋が残っていたら。洗面台に髪の毛があったら。全てが台無しになってしまう」続けて彼が言うには、物だけではなく、たばこや香水、正体不明のほのかな異臭もその対象だ。
「若い時に、ドアの内側やテーブルに付着した微かな指紋、しかも太陽光が、ある角度で照らした時に浮かび上がる指紋で、クレームになった事が教訓として残っています。だから前日の宿泊者の物、匂い、汚れ、傷、跡形の一切を消し去る。前日の宿泊者が部屋を出た十二時から今日の宿泊者が部屋に入る十五時迄のわずか三時間で」 口数の多い方ではないと言う彼が徐々に饒舌になる。「その為に部屋に入るとまずプロファイリングを行います。部屋に残された物や匂い。使用済のパジャマやベッドの使用状態から、ここで何を食べ、どんな事をして過ごしたのか、部屋中をじっくり見渡すと、宿泊した人達の物語が全て見えてきます」彼は自信を持って話している。「この部屋では行儀の良い恋人達が、シャンパンとフルーツで記念日を祝って素敵な夜を過ごしたのだな。この部屋の三人の家族はケーキとコーヒーで息子の誕生日を祝った。こっちの若者達はマナーがなっていないな。この老夫婦は、大阪の観光名所を巡ろうとパンフレットを仲良く見ていたのだなと。全ての物の置き場所や置き方で状況が想像出来ます」 プロファイリングの活用は、例えば、やんちゃな子供が宿泊したと想像される時は、玩具や靴下がベッドの下に落ちていないか? マナーの悪い若者達は、部屋に傷を付けたり壊していないか? ケーキで誕生日を祝った家族の部屋は、冷蔵庫の上部にクリームが付着していないか? シャンパンで記念日を祝ったカップルは忘れ物をしていないか? 酒に酔った人達の部屋は、金庫や壁が悪戯されていないか?ここから、全ての痕跡を消し去る清掃のポイントが見極められると言う。 彼は微笑み、私に言った。「このホテルは二百五十二室だから、一夜にその数の物語が創られる。 僕が小説家なら残された部屋の状態から、二百五十二の短編小説が書けるよ」私は頷いた。 彼は六年前に宿泊した、老夫婦の事が忘れられない。「三連泊の二日目に外出中のご夫婦の部屋へ清掃に入った時、デスクの上に、資料が綺麗に置かれていました。一番上の書類に『一・一七のつどい神戸三宮 東遊園地』の記載。前日が阪神淡路大震災の十五年目だったので、ご夫婦が出席された事を直感的に把握しました。せめて快適な滞在をと願い、毎日、念入りに清掃し、家具の位置からコーヒーの置き場所までご夫婦に合った配置をしました。ご夫婦が出発され、部屋に一枚のメモがありました。
そこには(毎日綺麗な掃除、有難う御座いました。私共は鹿児島から来て、十七日に神戸の震災追悼式に出席した後、亡くなった息子と十六年前に一緒に泊まった、このホテルに宿泊しました。お蔭様で良い時間を過ごさせて頂きました)とありました。僕は次の宿泊者に痕跡を残さない部屋を提供する為、いつも素早く手際良く掃除していたけど、この時はゆっくりとご夫婦の想い出を大切な場所に仕舞い込む様に、丁寧に片付けと掃除をしました。実は僕も追悼式に出席していたから。もし僕と父が逆だったら、父もあんなメモを誰かに残してくれたかな」 以来、中谷輝一は一層、痕跡の無い新しい舞台を毎日、宿泊者に提供している。時には仕舞い込む様に。

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 2014年度(28期)「向日葵の性(せい)」 柳 霧津子

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 ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されてから約三年、発症から死亡まではかなり個人差があるが、私が完全に〈石〉になる日はそう遠くないだろう。といって、私は自分の人生に絶望しているわけではない。
 もうすぐカズミさんがやってくる。
 約束の午後二時、玄関のチャイムが鳴った。インターホンで応対する無愛想な妻の声が聞こえて数十秒後、私の部屋の扉が開く。
 「こんにちは、ホワイトハンズです」
 カズミさんの明るい声が耳に心地良い。
 ホワイトハンズは、二〇〇八年に日本で初めて、男性の重度身体障害者の『射精介助訪問サービス』を始めた一般社団法人である。代表理事が住む新潟オフィスを本部に、関東と関西に事務局がある。カズミさんは関西支部に所属する介助スタッフだ。
 「お庭の向日葵、わたしよりノッポ」と微笑みながらカーテンを引いた彼女は、鞄から仕事道具を取り出す。
 介護用手袋・ローション・コンドームの三点セットだ。
 四十を過ぎてこんな身体になるまで、私は『障害者の性』など考えたこともなかった。病気が判明して夫婦生活はなくなった。発症当時は自慰行為もできたが、今動くのは目玉と口だけだ。そんなときに見つけたのがホワイトハンズのホームページだった。サイトのトップに〈私たちの使命は、新しい【性の公共】をつくること〉とある。
 性の公共? 私には意味不明だった。
 もっともらしい文句で障害者を狙う、新手の風俗業者か。でも他に、選択肢も稼ぎもない今の私にはその料金も魅力的だった。
 入会金・年会費無料、三十分二八〇〇円。十五分追加毎にプラス一五〇〇円。
 我が家を訪れたカズミさんは、私と同年代の既婚女性で、涼やかな笑顔が秋風に揺れるコスモスのようなひとだった。
 一カ月に一、二回利用するようになって半年が経つ。
 「では、ケアを始めますね」と、ベッド脇に立ったカズミさんは私の下着をゆっくりと脱がす。半透明のビニール手袋をはめ、洗面器に汲んだ湯でタオルを絞る。熱くないですか、と声を掛けながら、私の陰部全体を丁寧に清拭してくれる。「性の介護」は、いつも、会話をしながら和やかに進む。
 カズミさんの本業はエステティシャンだ。医療や介護職の経験も、もちろん風俗業に携わったこともない。ではなぜ、という私の素朴な疑問に「射精介助を特別な行為だと思ったことがないんです。食事や排泄や着替えのお手伝いと一緒。子供の頃、知合いが入院していた障害者施設へよく遊びに行っていて、世の中にはいろんな人間がいる、というのを理屈抜きで感じたことも関係があるのかもしれません」
 マッサージローションを馴染ませた両手が陰茎を包んだ。脳がどしんと震える。
 「この利用者の七割が脳性まひの男性です。皆さんインテリで紳士ですが、恋や結婚となるとハードルは高いのが現実。四肢麻痺が酷くて自慰もできず、施設や親元を出るまで、何十年も射精したことがないという方も少なくありません」 
 後天性障害者の私には思いもよらない障害者の性の現実だった。
 「性の先進国オランダでは障害者のための性サービスを仲介する団体も複数あって、障害者の性の処理に医療保険の適用を認めている自治体もあります。まさに【性の公共】です」
 性をタブー視する日本では相当時間がかかりそうですけどね、と勃起を確認したカズミさんは手早くコンドームを被せた。右手でしっかり握って上下にしごく。動かぬ筋肉の中でそこだけが柔軟に、雄々しくそそり立つ。
 「性欲は人としてあたり前の生存本能。特に男性の場合は、性のケアが〈自尊心のケア〉に大きく関わっていると思います」 
 妻は隣の部屋でボリュームを大きくしてテレビを見ている。そこまでして……と、『射精介助』の定期利用に反応は冷たい。
 カズミさんの指先が張りつめた鬼頭をなでた。血流が一点に集中し、呼吸が荒くなる。私は生きている。今、確かに生きている。ほとばしるしぶきに、男としての、一個の生命体としての自信と希望がみなぎる。太陽に堂々と顔をむける大輪の向日葵のように――。
 女性一人の訪問でトラブルはないか尋ねると彼女は首を横に振った。服を脱いで、とか胸を触りたいと言う人が時々いるが、このケアはあくまでも介護行為。性的快楽の最大化ではなく最適化が目的。それを理解できない人の利用は難しいでしょうと、私の着衣を整えながら話した。「そうそう以前、喘ぎ声を出して欲しいと言われて。声ぐらいなら、とも思ったんですが、女優さんじゃあるまいし、熱演できそうになかったので丁重にお断りシマシタ」と笑って、カーテンを開けた。
 窓越しに向日葵が揺れていた。青空に映えるさやかな黄色が、生きいきと眩しい。

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 2013年度(27期)「成れの果て(なれのはて)」 皆笹 麻希江

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 逃げる羽目(はめ)になった。俺は自分の車を乗り捨て、京都駅からバスに乗った。高雄(たかお)をこえたあたりで雨がみぞれに変わった。さらに北へ周山(しゅうさん)街道を上る。終着駅の周山では、乗り継ぎバスがエンジンを掛けて待っていた。
 右手首のロレックスに目をやると、全ての針が丁度ま上で重なるところだった。
 乗り換えに町営バスの固い座席に腰をおろし、俺は大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせた。俺は被害者だ。何も知らなかった。知らずに売っていた。いや、本当は勘付いていた。でも典座(てんぞ)の坊主が持ち込んできたものだ。需要もあったし、人を幸せな気分にさせた。
それが何故いけない。大麻取締法なんて、戦後GHQが押し付けたものではないか。自分を正当化する思いが湧いてくる。不意に発車のブザーが鳴った。びくりと反応する自分の臆病さに嫌な気がした。
 (くもがくれ、れこーど、どあのぶ、ぶたばこ……あっちゃあ)
 気を紛らわせようと心の中で尻(しり)とりを始めたが、墓穴を掘ったような気分で情けない。うつむいたまま、ひとつ長く息を吐くと、握った拳(こぶし)で額(ひたい)を細かく叩いた。
 二十三年前、まだ大学生だった俺に長男が生まれた。当時、創業五十周年を迎えた帯屋の父に勘当を言い渡された。俺は妻と子供を連れて、福井県との県境にある母の実家(さと)を頼った。緑の妖精が居そうな山々に囲まれた村は、子育てに最適な環境だと妻は喜んだ。
 長老と呼ばれていた祖父の口利きもあり、俺は大工や造園の手伝いや車を持たない老人の足になるなど便利屋みたいな存在になった。謝礼には、現金と別に必ず野菜が添えられた。出荷する野菜ではなく家族で食べる野菜だ。それは出荷用とは別の畑で、農薬散布をせず牛ふんや鶏ふん、堆肥などの有機肥料を使って栽培するという。
 俺は、この爺さん婆さんが作る野菜に惚(ほ)れた。いや惚れ込んだ。商売の為ではなく、自分や家族の為に心を込めて作るのがいい。種子(たね)を播くときの気持ちで味が変わるといっても過言ではない。この美味い野菜を都会(まち)に運ぶ。そう決めた。俺は毎朝、軽トラックいっぱいに不揃いな根菜類や果菜類、虫食いのある葉菜類など愛の詰まった野菜を積んで引き売りに出た。最初は近所から集めていたが、噂が広まり集荷のテリトリーが広がった。それから卵やこんにゃく、漬物に味噌と田舎のおばあちゃん製の商品も増えていった。
 正真正銘の朝採り野菜は、評判が良く飛ぶように売れた。
 引き売りを初めて一年が経った頃、草喰(そうじき)で名を馳せた料理屋の勧めで店を構えた。ログハウスのお洒落な店は、テレビや雑誌に取り上げられ、若手の料理人や寺の典座を務める僧など客がこぞった。
 俺は全ての社会問題は食(しょく)が変われば解決する、愛のある食べ物を口にすることが世直しに通じるという哲学を持った。
 やって来る客に「愛は足りてるか」と語りかけ、人を相手にするより天を相手にせよ、それですべて上手くいく、とボブ・マーリーの言葉を伝えた。
 そんなある日、栂尾(とがのお)にある寺の坊主が山で作る天然ハーブを扱ってくれと持ち掛けた。人を幸せにする愛のハーブだから扱えるのはこの店しかないのだ、と説き伏せられた。そして坊主は「神の草を下さい」と所望した客だけに売るよう念を押した。そのうち、そのハーブを練り込んだクッキーやパンまで持ち込んだ。俺はそのクッキーを食べ、座禅や瞑想で得られるという日常を超えた意識、宇宙との一体感を感じ、幸福感を味わった。
 いつの間にか、店には風変わりな人種が集い始めた。首に蛇のタトゥを入れたラッパーに、滝行で魂を清めて作品を創るという陶芸家、伝統工芸和紙の漉(す)き師など、人間が唯一作ることができるものは、イメージだけだ、と言い切る連中ばかりだった。俺も調子に乗って、物質文明よりも目に見えない世界こそが重要だと口にした。彼らは八百屋のおっさん、つまり俺をリスペクトした。
 妻と子供は、ついていけない、と俺の元を去った。
 宴は突然幕を閉じた。今朝あのラッパーがしょっ引かれ、神の草を栽培していた山も警察の手に落ちた。田舎の人達は都会(まち)から来る商売人に、前日の朝採り野菜を出荷し、少しでも収穫を上げようと除草剤を撒いていた。
 いくつかのカーブを折れたところで、バスは行く手をパトカーに阻まれた。制服姿の警察官が、俯く俺に名前を呼び掛けながら左の肩を三度叩いた。それでも身じろぎしない俺の右肩を、もう一人の警察官が二度叩く。それが交互に続けられた。
 俺は叩かれるリズムに合わせて、心の中で「なれの、はて」と呟いた。

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 2012年度(26期)「生(なま)」 中森 まゆみ

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 人を焼く臭いに慣れることができない。火葬許可証を提出するたびに訪れる事務所の片隅で、茉莉(まり)は手続きが終わるのを待っていた。臭気は静かにたちこめている。今日も火葬場は満員だ。休む間もなく死体が焼かれていく。突然、焼却具合を確かめるためについている小窓に、人が飛びかかってきた。また死体が起き上がったのだ。声を上げそうになって飲み込む。強く目を瞑って何かを押し殺す。それにしても、この臭い。ずっしりと背負い込んだようになるのは、気のせいだろうか。怨念という言葉を思い浮かべては頭を振った。誰もが惜しまれて亡くなるわけではない。 
 茉莉が葬儀屋に就職したのは一年前。それまでは大手の保険会社で事務のパートをしていたが、食べていけなくなった。離婚したからだ。夫の暴力に耐えきれなくなったのだ。三人目の子どもが大学を卒業するまで待つつもりでいた離婚だったが、体が悲鳴をあげはじめた。三男が高校二年になった頃から、下痢が何ヶ月も続き痩せ細ってしまったのだ。友人に連れ出される形で別居し、調停を経て離婚した。夫はあっさりと暴力を認め、養育費の支払いは了承したが、借金を理由に慰謝料については拒んだ。離婚だけを成立させ、まだ裁判をしている。 
 死者と向き合う職業に抵抗がなかったわけではない。けれど、五二歳の特別な能力のない女を雇ってくれる会社は他になかった。毎日、物のように死体は運ばれてくる。医師の診断書がある場合はよい。けれど、検死を経て警察から返ってくる死体には、目を背けたくなる。亡骸が入っている納体袋をあけると、足元に脳みそが置かれていたりするのだ。日数も経て返されるので、暑いときには蛆虫がわいている。
 その客が訪れたのは、夏も終わろうとしている頃だった。ほっそりとした躯体にショートカットが似合っている。白髪交じりの自然な髪型にやつれた頬が寂しげだ。ブラウスの袖からは古い傷が見えた。先輩社員たちが忙しく立ち回っていたので、プランニングを任されることになった。
 茉莉の勤める会社では主に家族葬を取り扱っている。安さがセールスポイントの葬儀屋だ。中でも、火葬だけを済ませる「帰郷」という施工は、二十万円ほどで全てを終えることができた。通夜も葬式もない。僧侶も呼ばない。人の死亡手続きだけを行なう。
 「御主人様の御葬儀ですが、何か希望はございますか?」
 「さっさと終わらせたいんですよ。一番早く終わる方法でお願いします」
 松谷と名乗った女は、方頬だけを引きつらせていた。憎しみが顔に張り付いている。
 「では、帰郷コースでいかがでしょう。火葬場の空きがあれば、すぐにでも済みますよ」
 「ええ。それでお願いします。夫との縁を早く切りたいんです」
 「ご苦労なさったんですね」
 「夫には、苦しめられました。暴力で。どうして早く逃げ出さなかったのか……」
 「私も同じでした」
 二人は見つめ合って、けれどそれ以上何も言わなかった。語り合えるほど簡単な過去ではない。松谷のブラウスの袖から見える古傷が、なぜか赤く脈打っているような気がした。
 「割り込んででも早く火葬場を押さえます」
 目で頷きながら、決心を口にする。松谷は、死亡手続き全般を会社に任せると言うと、現金で支払って帰って行った。骨も適当に拾ってくれとのことだ。離婚をしなかったら、それは何年か後の茉莉の姿であっただろう。それから、妻に心底死んでほしいと願われる、男の人生を呪った。
 二日後に、松谷の夫は焼きあがった。想像以上に太い骨だ。喉仏だけ骨壷に入れると、
 「馬鹿、馬鹿、馬鹿」
 茉莉は、小さく声を上げながら長い箸で残っている骨を突き続けた。男の残像が手応えもなく砂のように崩れていく。それは、いつしか別れた夫の姿に重なっていた。こんなにも憎んでいたのだ。骨上げがすんだら、残りの骨や灰は、火葬場にとりつけられた強力な吸引器で集められる。定期的に産業廃棄物として処理されるのだ。この男も別れた夫も、いつか、ただのゴミになる。離婚して封印したはずの憎しみが、思いのほか強く湧き上がってきたことに困惑していた。もう全部、捨てて忘れてしまいたい。
 鏡に姿を映してみる。髪も肉もある。まだ灰になっていない自分の姿を、一つ一つ執着しながら確かめていると、ふいに誰かに抱きしめられたい衝動にかられた。茉莉の中の女が、生もののようにドロリと溶け出してくるようだ。生きたいと、強く思っていた。
 夏の終わりに蝉が死んでいく。足元に最期の鳴き声を感じながら、握り締めた拳の強さで顔を上げる。夕暮れ。圧倒的なオレンジだった。なんて生々しい太陽だろう。

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 2011年度(25期)「男と女と着ぐるみと」 喜多 住香

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 生まれてきて良かったのだろうか。幸せとは一体何なのだろうか。智香(ともか)は物心ついたときからずっと、答えの出ないこの問いを、自分自身に撃ち続けてきた。問う度に、震える心臓に、ズドーンと銃声が響く。
 三十六年前、智香は吉田家の長男として生まれた。裕福な家庭とは言えない暮らしだったが、ほんのりとした豆電球が似合う暖かい家庭だった。しかし、その家庭の中には、もう戻れない。二度と帰ることができない。
 智香は、野球やサッカーに走り回る友だちとではなく、女の子たちと教室で静かに遊ぶのが好きな少年だった。頭が良く、温厚な性格で良く気がつき、両親にとって自慢の息子だった。
 高校入学を目前に控えたある日、制服の採寸で智香は、女子生徒が並ぶ列に堂々と並んだ。そして、「女性として生きていきたい」と言い放った。付き添いの母は、おろおろするばかりだった。帰宅後、父にも同じことを言った。跡取り息子が何をふざけたことを言っているか、勘当だ、二度とこの家の敷居を跨ぐなと、父は、だいたいその様な内容の言葉をまくし立て、玄関の扉をぴしゃりと閉めた。何も聞いてはくれなかった。日々、どんな気持ちで過ごしていたか、どんな苦しみをもっていたか、何も聞かれぬまま家を放り出された憎しみが、今も心に突き刺さったままだ。
 自分に正直に生きたい。ただそれだけだった。何も悪いことはしていない。そう開き直って、高校生でもできるアルバイトを必至にさがしてお金を貯めた。大学生だと嘘をつき、家庭事情をあまり聞かないところを選んだ。くじけそうになって、実家に電話をかけたことがあるが、「我が家に子どもはいません」と言われた。間違いなく母の声だった。再度かけると、「世間様に恥ずかしいから、近くをうろうろしないように」と念を押されて一方的に切られた。そして、実家の電話番号は、次の日から繋がらなくなった。
 二十歳を過ぎた智香は、様々なアルバイトで貯めたお金を叩いて、性転換手術を受けた。智香の昔の名前は智則(とものり)と言う。戸籍上の名前と性別を変えるためには、人に言えないくらいの苦労をした。どうして、心と体が一致した子どもに産んでくれなかったのかと両親を恨みもしたが、産まれてすぐに付けてくれた名前の一文字を残したのは、親孝行できなかった両親に対する唯一のお詫びだった。進学校に行って、国立大学を出て、公務員か医者になるのがお前の幸せだと父親はいつも言っていたが、智香は全く別の道を歩んでしまった。男性と言う着ぐるみを着たまま、父の描いた人生を歩んだ方が幸せだったのか、それとも、荒波を乗り越えなければならない正直な生き方の方が幸せだったのか、今はまだわからない。
 女として歩み出した智香は、ホステスとして生計を立てている。容姿が美しく、愛嬌もあり、苦労してきた分、人の痛みがわかる。智香の入れる酒は、涙をぬぐう味がすると評判だ。オカマと呼ばれる人たちに混じって智香は、戸籍上女性と言うブランドを持つ。だが、女性の機能まで得たわけではなく、深い男女の関係になったとしても妊娠することは絶対にない。男性客にとっては、大サービス品だ。それに気づきながらも智香は、そんな男たちの財布に頼って生きるしかなかった。
 智香の夢は、性別の狭間で苦しんでいる人を助けることだ。夜以外の智香は、病院で性同一性障害やISに悩む患者のカウンセリングボランティアをしている。智香は、白衣を着た堅苦しいカウンセラーではなく、着ぐるみの中に入って、患者と会話をする。着ぐるみの中にいるときだけは、男女を問われることがない。ありがとうと言ってくれる。握手をしてくれる。智香が、ありのままでいられるひとときなのだ。智香は今日も、病院のカウンセリングルームの片隅で、パンダの格好をして患者に語りかける。薬で治すことのできなかった患者が、智香の着ぐるみセラピーのおかげで、退院できたという噂も数多く聞く。いつかはこれで食べていけるようになりたいと、智香は少女のように夢を語る。生まれた時から、男性という着ぐるみを着せられて育った。その着ぐるみを脱ぐことに決意したら、両親はあっさり智香を捨てた。素っ裸で生きていくことが許されない智香にとって、男女の垣根を越えた着ぐるみに身をまとうことだけが、ささやかな幸せなのだ。患者の家族は、着ぐるみを着た智香を先生と呼び、心の中のもやもやをさらけ出し、荒んだ心を癒す。
 ある患者が言った。「今度私の友人を連れてきても良いですやろか。息子を性同一性障害という理由で勘当して、後悔したはる方ですねん」ふと、両親の顔が浮かんだ。両親であってほしいと思う反面、来るはずがないと打ち消す。しかし、不思議なくらい、心がうきうきした。自分の子どもを持つことが許されない智香を、着ぐるみの中にいる息子を、両親が見たら何と言うだろう。

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 2010年度(24期)「京子にとまれ、青い鳥」 青木 紀久代

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 三十路を目前にした京子は、十年以上勤めたペットショップを、突然解雇された。
「年が明けたら『鶏屋(とりや)』に行ってくれ。いやなら、他をさがしてくれ」
 系列店の『鶏屋』に行けば、誰も勤まらないという噂が絶えないあの仕事に回される。十二歳から五年半も耐えたその仕事を、京子が自ら望んだこともあった。今また同じ仕事をやれる自信はなく、ひどく狼狽えている。
 まだまだ修行が足りない、青臭いとつくづく思う。金魚や野菜でも間引きがある。あの仕事は根は同じかもしれない。
ただ、人間の勝手でやっかいもの扱いされたり闇に葬られたりする生きものを、自分の身の上に重ねると辛かった。ましてその命を自分の手で奪わなければならないあの仕事は、もう出来ない。
 京子は三歳のとき母に捨てられた。若い男と出て行ったのだ。父はショックで京子を育てる気力もなく、一番近くに住んでいる遠い親戚に強引に京子を預けた。
「月々のものは必ず送るからよ」
 以来、どういう血の繋がりかもわからないほど薄い親戚を、たらい回しにされて育った。
 中学にあがったとき、木工職人の夫婦が、送金の増額を条件に引きとってくれる。京子と同年輩の男の子が二人いたが、みんな無口で、めったに笑わない家族だった。当然のように家事のほとんどは京子の仕事になったが、動いている方が気楽なので嫌ではなかった。
 父からの送金は夏休み前にもう遅れる。すると大人達は、京子を隣町の『鶏屋』でアルバイトさせることに決めた。
学校に内緒なのにつけこまれ大人の半額だった。仕事はヒヨコの仕分けで、雌雄や障害を見分けて「処分するもの」を青いゴミ袋に入れる。そして帰りに焼却炉に投げ入れるのだ。袋の中でヒヨコはまだ生きてないているのだから辛い。
都会なら誰かが問題にしそうだが、血縁だらけの町では誰も声をあげない。京子は授業が終ると毎日工場へ行き、九時すぎまで働いた。暗い道を帰るとき、ヒヨコの声がどこまでも追っかけてくるようで恐ろしかった。
 そんな辛い仕事なのに、中学卒業がせまると、京子は会社にあと三年働きたいと申し出た。どうしても高校に行きたかったのだ。願いは受け入れられる。そしてこのときの苦労は決して無駄にはならなかった。
 会社は京子を、高校卒業と同時に系列のペットショップに採用してくれた。親戚を出なければならない事情も理解して、敷金と一ケ月分の家賃を前借りさせてくれたので、小さなアパートに移ることまで出来たのだった。
 初任給から返済が始まったから、一日一食の日もあった。それでも、遠慮なくため息がつけるし、トイレで考えごとも出来る。生れて初めて自由のある空間を手に入れ、空腹など苦にならないほどの喜びを感じていた。
 ところが、失業中の父が女にも振られ文なしで転がりこんできたのだ。わずか三日目だったが京子はそれでも大喜びしたのである。
 やっと父さんと暮せる!
 ペットショップで働くのに特別な資格はいらない。だが個々の生きものに関する知識が乏しければ良い仕事が出来ない。まじめな京子は寝る間も惜しんで勉強し、休日返上で研修会に出てどんどん知識を得ていった。
 店では、売れない生きものを系列店同士で交換し合う。ある日京子は残ったハムスターをつれて帰った。
 数日は、咬みつく、ハンストを起こす、熱を出すなどで手を焼かせたが、カゴの前で寝てやり、徹夜で看病するうちに、素直に甘えてくるようになった。このとき京子は、疑似親子を味わえたような気がした。
 ハムスターの寿命は二年から三年だが、京子は店で、三年と二十一日生きさせた。
「わしでも三年生(い)かしきれんかったぞ」
 五十代の店長はそう言って、ポケットマネーから金一封を出してくれた。勤めて五年目だったが、今も大切にとってある。
 仕事から得られる充実感、自分の城で暮せる安らぎ、肉親がそばにいるぬくもり……。自分にこんな日が来たのが不思議な気がした。
 ところが、去年店長が若い男性に変わり、店の方針も大きく変えられた。他店との交換サイクルが早まり、いつのまにか消えている動物もあった。京子に任されていた仕事は、分散してアルバイトに譲る方針に変わったとき、京子の胸の中の焔も消えてしまった。
 都会に出ている彼氏は言う。
「あの仕事は今でも京子にやれる。あのころの生活を思い出していやなだけだよ。おまえは強いさ。気にすんな」
 京子は父を残して彼氏の部屋に移ることに決めた。居酒屋ならバイトの口はあるらしい。それに二人とも子どもを欲しがっていると、メールのやりとりでわかったから。
 京子はどんな母親になるのだろうか―。

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 2009年度(23期)「断崖が呼んでいる」 山野 知之

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 誠実で信義の厚い人間だと、彼は自分で思っていた。しかし今は、自分で自分が信じられなくなっていた。このように自分が変わるとは、考えられなかった。
 今井良治は、福井県三国町にある会社を昨年定年退職した後、東尋坊でNPO法人自殺防止活動の一員としてボランティアで働いている。東尋坊は、景勝地として有名だ。海岸に面した断崖絶壁の高さは25m程。その岩根に日本海の激しい荒波が打ち寄せている。
 東尋坊は、自殺の名所でもある。ここで年間八十名程の人が保護されている。その七割が男性だ。このNPO法人は、平成十六年に創設され、スタッフは十五名程。退職者、商店主、僧侶などである。カメラや荷物など一切持たずに、人目を避けるように歩いている人は要注意だ。
 今井良治は、中肉中背。やや猫背で手が少し震える。初期のパーキンソン病と医者に言われている。背中が少し丸く出かかっているのを妻に注意されると、一時は真っ直ぐに伸ばすのだが、すぐに元に戻ってしまう。でも日常生活に支障は無く、少しでも社会的仕事をしたくて防止活動に参加している。今までに五人保護した。
 十一月末のこと、今井は夜八時に一人で巡回することになった。通常は男二人で巡回するが、相棒の学生が来られなくなったからだ。彼は懐中電灯を手に、一人でパトロールし始めた。街灯から少し離れると、深い暗闇が広がっていた。
 岩場に出た。暗がりのベンチにだれかが座っている…。目の前には断崖がある。
 猫背の全身に緊張が走った。30m程近付いてから、出来るだけ明るい声で、
 「今晩は。誰か居ますかー。私は巡回員です」と、声をかけた。初老の男だ。荷物は無い。今井はそばへ行って、
 「何か、悩み事があるなら、聞かせて下さい」と言うと、ようやく、
 「すみません…」と、弱々しい声が返ってきた。今井は、とにかく交番に行きましょうと、男を追い立てるように歩きだした。
 交番に着いて、今井は驚いた。
 「津田さんですか!」と叫ぶと、相手は、
 「はあ。おたくは今井君?」
 表情の乏しい顔には、疲労感がただよっていた。津田は今井より少し背が高いが、昔より痩せていた。三十数年前の記憶が、今井によみがえってきた。
 津田松雄は、かつて今井から恋人を奪った男だった。
 今井は、昭和四十年に福井県の高校を卒業して大阪の衣料会社に就職。二年後に短大を出た和子が入社し、二人は付き合いだした。その二年後に大学卒業の津田松雄が入ってきた。この三人は同い年。やり手だった津田は溌剌としていた。間もなく、今井は和子から別れ話を聞かされた。理由はなんと、津田と半年後に結婚するという。高卒の悲哀を痛い程味わった。傷心の今井は、間もなく郷里の三国へ帰り、地元の女性と結婚した。
 「この人は知り合いだから、私の家でしばらく預かります」と渡辺代表に言って、今井は津田を自宅に連れて帰った。出された「おろし餅」を、津田は半分しか食べなかった。
 うつろな目の津田は、何を聞かれても答えない。 憔悴した顔に、昔の面影は無かった。
 三日目、ようやく少しずつ話し始めた。津田は、生きる望みを失って東尋坊へやって来た。五二歳で退職し、印刷会社を立ち上げたが、数年で倒産。多重債務に至る。昨年、妻の和子は病死。子供は無く、彼は生涯孤独となった。家賃を滞納し、不安は増すばかり。何もやる気が起こらず、眠れない夜が続く…。
 津田は和子のことについて、
 「謝りたいと思っている内に、君は郷里へ帰ってしまった…」と言ったが、昔のことは忘れてしまったよ、と今井は苦笑した。しかし、それは嘘だった。
 五日目の朝、津田は消えていた。彼は夜中に起きて、東尋坊の崖から飛び降りた。渡辺代表は、四六時中見守ることは不可能だよと、今井を慰めた。
 今井は津田を保護した後、励ましただけで、通常のアフター・ケアをしなかったのだ。二週間世話をするという期限をつけること、彼の地元へ行き家賃をゼロにして貰う交渉、多重債務をゼロにする自己破産の手続きなど、問題解決の手助けをしなかった…。
 津田の死後、今井は激しい自己嫌悪に陥った。(自分は偽善者だったのか…。相手を許すことが出来なかった自分を、許せるか…。自分はこの仕事を続ける資格があるのか…。自分は津田が自殺するのを待っていたのではないか……。)
 十日後の深夜。津田が座っていた岩場のベンチに、今井が座っていた。目の前には断崖がある…。

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 2008年度(22期)「拘置所の塀の中にも」 藤川 ヤヨイ

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 聡子は拘置所の職員用の食堂で働き始めた。どうしても拘置中の息子に会いたい、会わねばならない、そう思うからだ。初めて2階の事務所に入ると、窓から中庭が見える。聡子は窓ガラスに貼り付いて、庭で作業をしている男たちの中に息子一昭(かずあき)の顔を捜した。
 もう二十年も会っていないが、国選弁護士からもらった三十一才になった今の写真は目に焼きつけてある。弁護士は言った。「一昭さんは自暴自棄になり、拘置所内で自殺を図ったんですよ。母親に捨てられたせいで自分の人生が狂ったんだと言ってよく暴れています。」
 二十年前、聡子は暴力をふるう夫から逃れて家を出た。夫は聡子には横暴だったが四年生の一昭は可愛がっていた。
翌年一昭を引き取ろうと家へ向かうと、一つの傘に入って仲良く歩いている息子と新しい母親を見た。じゃまをするまい、経済的にも豊かな方が一昭のために良(い)い、と自分を律して離れた。
 弁護士の話によると、継母(ままはは)はやがて離婚し、一昭は不良になり高校中退。最近やっと就職できたが解雇され、それを恨んで暴力沙汰を起こす。父親も既に亡く、今となっては聡子だけが一昭を支え、立ち直らせる唯一の存在なのだと言う。
弁護士は拘置所の住所を書き置いて帰った。事務員を続け定年になったばかりの聡子には、目眩(めまい)がする程の衝撃だった。
 聡子は面会申請を出して拘置所の売店で着替えや食べ物を買って待っていたが、一昭は面会を拒否して会ってくれなかった。「あんたのことを思わない日は一日もなかったのよ」と手紙も書いたが、面会は拒否され続け、手紙の返事も来ない。どうしたものかと途方に暮れていたある日、聡子は食堂の職員募集のチラシを見つけた。食堂の名前は書かれていないが、住所が書いてある。この住所は!・・・・・。
 見下(お)ろしている中庭では、青緑の制服を着た看守の指示に従い、グレーの制服を着ている男達が黙々とベコニアを植えている。それは既に刑が確定している受刑者の姿であったが、そうとはまだ知らない聡子は息子を捜し続ける。中庭には柔らかな春の陽差しが注がれていた。天は塀の外と同じように、罪を犯した者達の上にもこうして光を注いでくれている、天はまだ一昭も私も見捨てていない、そう聡子は思った。そのことに感謝と感動を覚えながら、聡子は明るい窓辺に立っていた。
 聡子は手紙を送り続けたが、一昭は相変わらず荒々しい態度を見せるらしい。自分の言葉など届かないのだと聡子は嘆き、二十年前に一昭を連れて出なかったことを心底悔いた。
 食堂でひと月ふた月と働く内に、護送車や小さな紙袋を提(さ)げて出所してゆく人を見ることもあった。中庭の向こうの棟では死刑が執行される日もある。死刑には刑務官が三人携わり、執行した午後はその刑務官は休みになる。聡子は食堂で休み明けのA刑務官にそっと話しかけた。いつもはきびきびとした動作の A刑務官だが、今日は物憂げに一人で食後のお茶を飲んでいる。
「Aさん、昨日はどこかへ行かれたんですか」
「いや、二万円もらってもね。家族にも誰にも何にも話せないから、一人で飲んでました。」
「そうですか・・・今まで私、こんな嫌(いや)なお仕事をしてはる人がいるなんて考えてみたこともなかったんです。何も知らなくて・・・」
「辞めても生活がね。子どもがまだ中学生なんですよ。おばちゃん、子どもさんは?」
と、その時非常ベルが鳴った。これで今日は三度目だ。緊張が走り、A刑務官も他の職員も飛び出してゆく。誰かが暴れているのだ。一昭ではないだろうかと、非常ベルが鳴り止むまで動悸が治まらない聡子だった。
 食堂の奥には廊下があり、そこは拘留者が検察庁に行く時に出口へ向かう通路である。弁護士から一昭が検察庁に出向く日を知らされた。食堂と廊下の間には格子が嵌(は)められてあるが、通ってゆく一昭を見ることはできる。その朝は格子のそばに仕事を持ってゆき、二人の刑務官に前後を挟(はさ)まれて通る人影を待っていた。とうとう一昭が通りかかった。
聡子は格子に飛びついた。一昭は無表情でだらっと歩いている。聡子の胸の奥からこんな対面をする悲しみが喉を突き上げて声が出ない。A刑務官が一瞬聡子を鋭く見たが、一昭は全く気づかずにドアの向こうに消えてしまった。
 ひと月後、一昭がまた検察庁に行くために通りかかったその時、非常ベルがけたたましく鳴った。一昭の後ろを守っていた刑務官が走り去った。残された一昭とA刑務官は、騒ぎが治まるまで格子の傍で待つ気配だ。一昭は格子にすがりついている食堂の人を見た。じっと見つめている。聡子の唇が「一(かず)ちゃん」と動き、一昭の唇は「お母さん」と動いたが、非常ベルの音にかき消される。聡子は用意していた言葉も忘れ、子供の頃の面影を一昭の顔に懐(なつか)しく見ていた。
涙ばかりがはらはらとこぼれ落ちる。一昭が鼻をすすった。
 A刑務官は少し離れ天井を見上げて立っていてくれる、非常ベルが鳴り止(や)むまでは・・・・・。

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 2008年度(22期)「あやとり」 古川 真穂

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 彼女を初めて見たのは、大阪北新地。超一流のニューハーフクラブ「VOGUE(ヴォーグ)」のショー。二十数名が舞うステージでただ一人、指の先までピンと力を入れ、丁寧に踊っていたのが里奈だった。流行と云う意味を持つその店で、だからこそ不易(ふえき)な何かを大切に守る様に、彼女の手は上品に揺れていた。まるで見えない糸であやとりをしているかの様に。
 本名、今福圭一(いまふくけいいち)。幼い頃、水商売をしていた両親の帰りを待つ遊び場は、今池の自宅近くの飛田新地で、一人っ子だった彼の蝋石ケンパの遊び相手は、赤線のお姉さん達だった。泣いてどうしようもない時は、遊郭のネオンを見ると泣き止むような子で、この頃からキラキラしたものが大好きだった。
 父は生涯一人。けれど母親はたくさん居た。銭湯で良く会うキレイな女の人が、ある日お母さんになっていたこともある。
そんな出入りの激しい大人の世界の中で、交差する様々な愛の縺(もつ)れを、小さな体で上手にすり抜けていく術(すべ)を圭一は自然と身につけていく。生きていく為に自分を殺し、周りの顔色ばかりを窺(うかが)う生活は、彼に適応能力と云うものだけを残し、居場所までは与えてはくれなかった。外の世界の不安定さは、やがて圭一の内部にまで浸食し、彼自身を縺れさせていった。
 ボールよりもお人形、ときめくのは男の子にばかり。他の男子と自分とは、何かが違うと感じ始めた思春期の頃、近所のおばちゃんが彼を呼び止め、一枚の写真を差し出す。
「あんたも年頃になったし、もう話してもええ思うねん。実はなぁ、その、あんたには生みのお母ちゃんが居てるんや」
やっぱりな、と思った。圭一の中に在った今までの様々な違和感は、正解であったと共に、写真の中で微笑む母親を乞う本能へと変わっていった。
 己の中の不安定な性と云うものに悩まされ、絡まりながらも、女性的な美を求めるこの自分を最大限に生かせる職業に就こうと、高校卒業後、美容師になった彼が初めて勤めた店は、偶然か必然かVOGUE(ヴォーグ)と云う名前だった。この頃からニューハーフの店でバイトもはじめ、彼は夜にだけ「彼女」になっていくのだった。
 ある日、このバイトが親にばれ、実家に連れ戻された彼は、怒り狂った板前の父に、長く伸びた髪を裁ちばさみで切られ、泪をいっぱい溜めた目で、包丁を突きつけられる。
「なんで、なんで全うに生きられへんのや。お前を此処で殺す。それからワシも死ぬ!」床に落ちた髪が、父と子の決して交わることの出来ない心模様のように、静かに散乱していた。そんな父も彼が二十五歳の時、ほんの僅かな遺産と許しを残し、肺がんで逝った。
「お父ちゃん、この仕事続けてもいい?」
「仕方ないやろ・・・・・」
遺産は彼、いや、彼女の乳房に変わった。最後の最後に、なんて粋な天国からの贈り物。
 美容師を辞め、圭一はニューハーフ「玲央(レオ)」として生まれ変わり、生きていく決心をする。昔、身につけた適応能力と、水を得た魚のように夜毎磨かれていく容姿で、あっと云う間に売れっ娘(こ)になり、TV出演の依頼が来る程の人気ぶりとなった。ある日、「追跡」と云う番組から、あなたの課題を特集させて欲しいとのオファーが来た。彼女はこう答えた。
「お母さんに会いたい。」
 一週間後、やっと見つかりましたと局から連絡が入り、指示されるがまま、奈良県吉野の温泉旅館へ向かった玲央。
部屋に通され、襖(ふすま)越しに母の鼓動を感じると、急に恐くなった。女の格好をした私をどう思うだろう。でも会いたい。
何もかもを取り払うかの様に襖を開けた。もうそこに言葉は要らなかった。手と手を重ね、ただ母を感じた。
「手ぇの形、そっくりやね」
彼女はちゃんと母の血を受け継いでいた。母もまた美容師として生きていたのだった。その夜、少し距離があった二つの布団をぎゅっと寄せて、母は写真と同じように微笑んだ。
「今日は抱っこして寝てあげる」
この瞬間、玲央の中で今日までずっとぽっかり空いていたものが、全て埋まった。
「生んでよかった。生んで、よかった」
満たされたのも束の間、やっと出会えた母は数ヶ月後、列車に飛び込み、自ら命を絶った。
 中も外も不安定だった四十年を生きて来られたのは、親がくれたこの左右対称の安定した圭一と云う名前のお陰かもしれない。両手でバランスをとり、男女と云う性を超越して生きる、不易流行(ふえきりゅうこう)な自分を誇れとエールを送りながら、真ん中に芯を通してくれていたのだ。近年、玲央から左右対称の里奈へと改名し、女優として東京に移った彼女のあやとりは、もうすぐ東京タワーになろうとしている。

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 2007年度(21期)「動き、動かす人」 小川 紘子

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 釜ヶ崎の真ん中に聳える西成警察署の脇の小路に、今日の食事と宿泊代に困っている人に、無料で食事と宿を提供する「出会いの家」がある。
 主(あるじ)の渡部宗正さんは大阪生まれの大阪育ち、六四歳。グレーがかった髪と髭に涼しい笑顔、さっぱりした明るい語調が人を安心させる。だが、初めてここに宿を求めてきた人は「タダなんてホントか?」というきつい目付きをしている。
あちこちで騙され、歳をとり、仕事にあぶれてドヤにも泊まれず、公園で日に二回の粥と週に二回の雑炊の炊き出しに並んで生命は繋いでも、体力は衰え酷寒の野宿は殊に辛い。そんな人達がここに来て渡部さんと出会い、屋根の下で温かい食事をとり、毛布を借りて一泊する。翌朝出るが、正午か四時に又来て一泊する。それを繰り返しているうちに、きつい目が和らいでくるという。
 この家では高齢の日雇労働者を優先するが、飲酒家以外は誰でも、名前を訊かずに受け容れる。蚤や虱、南京虫も一緒に入る。夜間パトロール中に見つけた病人を連れ帰り、費用を受けもって入院させることもある。渡部さんの世話で住民登録ができ、生活保護を受けるに至った人は、十年前で三千人を越した。
 「色々気にせず、動き出すことですね」と言う渡部さん。独りで「出会いの家」を開設して二十二年。当初からの支援の輪は細くなり、ボランティアも高齢化して手薄になった。支援物品のバザー収益と寄付金による活動費の不足で、困ることはあっても、「辛さはないですわ」と言い切るこの人、欲と偽の跳梁する今の世とは別の次元に生きている。
 幼い頃、鉄関係の仕事で羽振りのよかったお父さんの入院、連帯保証の債務による一家の没落、四人の子供を抱えたお母さんの苦労を渡部さんは見た。小学校五年の時、お父さんは亡くなり、出身地の松山で葬られた。末っ子の渡部さんは、お姉さん達が泣きながら硬直したお父さんの遺体の関節をボキボキ折って丸い棺桶に納めるのを見て決心した。
――金持ちにならんといかん!(死ぬ時、長い棺に入れるように)
 成人して有名会社に就職し、営業部で十年程働くうち、儲けるだけの仕事がつまらなくなってきた。成績を上げるため、脅したり騙したりの役割も厭わしくなった。
 カトリック信者のお兄さんの影響で、洗礼を受けていた渡部さんが、アッシジ聖者フランシスコの清貧と兄弟愛の精神を継ぐ「フランシスコ会」という修道会に、社会人として属するようになったのはその頃である。
 ある晩、この会の司祭から電話がかかってきた。釜ヶ崎の高齢日雇労働者の寛ぎの場である「ふるさとの家」を手伝ってくれないかという頼みであった。「はい!」と答えた時、渡部さんはエリート社員の将来を棄てた。
 「ふるさとの家」で奮闘を始めてから、夜間パトロールにも加わった。新参のボランティア達はよく、「野宿者を無料で泊める宿泊所があったら」と言った。「じゃ、誰がそれをするのですか?」とベテランが問うと、皆黙り込むのが常だった。八年後、「ふるさとの家」に人手が足りてそこを出た時、渡部さんは考えた。
――自分は清潔な服を着て、毎日食事をし、屋根のある家に住んでいる。それが出来ない人がいれば、出来るように手助けするのはあたり前ではないか。
 昔、傷痍軍人を見ると、苦しい家計から渡部さんにお金をもって行かせたお母さんの姿が心にあり、夜回りの後の会話も思い出した。
――誰もしないなら、するか!
 一九八五年、今の家の正面に見つけた売家を私財を投じて買い、十人程泊れる「出会いの家」を始めた。四年後、大阪カトリック大司教の保証でやっと銀行から借金し、現在の家を買って改造した。多い時は百人も泊まる盛況だったが、近年大阪市が、渡部さんの要望していたシェルターを建て、「出会いの家」の宿泊者は減った。渡部さんの目標は、この家の必要が無くなることである。
 路上に見捨てられた日雇労働者達の自立のために、渡部さんが行政に提案し続いていることは、回りの目のない公の建物で五十人ずつ順に市が給食する炊出し、公共の建設工事に手作業の導入、高齢者の半日雇用制、アルミ缶やダンボール回収所の増設と役所による倍額での買い取り等である。釜ヶ崎から社会を変えて行く動きの先駆者である渡部さんには、自分の明日を憂える暇は無さそうだ。
 今「出会いの家」が主力を注ぐ炊出しの、特大おにぎり作りを手伝った。午後四時、一列になって露地を進んできた百人余の人達が目を伏せて両手でおにぎりを一個ずつ受け取って去るのを見届けた帰り道、いつになくやさしい目で回りを見ている自分に気がついた。

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 2006年度(20期)「刑務官の春一番」 岩田 陽子

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 看護士免許を取得し、刑務所内の医療に従事せよ。その辞令が下ったのは、高松拘置所に刑務官として勤め、七年が過ぎた時でした。
 僕は頑なに拒みました。妻を亡くし、実家の母に幼い娘の面倒をみてもらいながら、暮らしていたからです。けれども、それは許されませんでした。
 僕は一人、小豆島から吹く暖かな風に背中を押され、東京への電車に乗りました。八王子医療刑務所に併設されていた看護学校へ通いながら、刑務官として従事するためでした。
 刑務官と看護士、二足の草鞋の始まりでした。母に預けてきた娘が心配でした。けれども、看護学や医学は思っていたよりも、僕の性に合っていました。相手の気持ちになって、何を望んでいるのかを考えるのよ、妻がいつも言っていた言葉を思い出します。妻もきっと、ナイチンゲールを学んだのかと思うと、胸が熱くなりました。死んだ妻もまた、看護婦だったのです。
 医療刑務所はここが刑務所かと疑うような環境でした。廊下には絵画が飾ってあり、大きな窓は十分な光りを取り込んでいました。だから、錯覚したのかもしれません。そこにいる人が罪を犯した人であるという感覚が薄れていました。
 ある一人の受刑者がいました。覚醒剤に起因する末期の肝臓癌です。もう足も立たないような小さな老人でした。腹水で張ち切れそうな腹を擦りながら、いつも心細そうな視線を天井に投げかけていました。
 僕は何とか、その老人に穏やかな最期を、と思い、優しい言葉や微笑みを投げかけました。その度に、老人の表情が少しずつ変わっていきました。これが看護なのだと、僕は思いました。そんな僕を見ていた同僚が言いました。自分達は医療の知識のある刑務官であって、看護士である刑務官ではないんだ、と。
 その時は、その言葉の意味が分りませんでしたが、しばらくすると理解できました。
 後日、あの老人の罪状を知った時、僕はあまりの酷さに目を覆いました。老人は少女を強姦し、殺害していました。
故郷に残してきた娘の顔が浮かびました。僕はここが刑務所であるということを実感しました。
 寝たきりの受刑者の体を拭き、シーツを交換する日が来ました。あの老人が僕を見つめ、黄色く濁った目を潤ませました。そして、「死にたくない」そう言いました。死にたくない?、怒りで目が眩みました。小さな命を奪った人間に、その言葉を口にする権利があるのでしょうか。僕は少女の無念を想いました。
「死んでしまえ」と、心で唱えながら体を拭きました。途中、隣のベッドで喚いている受刑者に、「静かにしろ」と一喝しました。
 最低な看護士です。自分は命令されて看護士になったのですから、ナイチンゲールに義理立てする必要はありません。
しかし、看護婦という職業を誇りにしていた妻に、申し訳ないと思いました。
 罪を犯した気がしました。
 その日、刑務官を辞める事を決意しました。看護士という肩書を持ってしまった自分には、刑務官をこれ以上続けることはできないと思ったのです。
 寒空の下、刑務所を後にし、故郷の高松への電車に乗りました。再就職の当てはありませんでしたが、もう一度、一からやり直せるそう思いました。
 故郷に戻った僕は精神病院で働き始めました。けれども、思い描いていたようには行きませんでした。刑務官だった自分は、知らず知らずのうちに、人と距離をとることを覚えていました。刑務官と受刑者の距離感、看護士と患者の距離とは明らかに違っていました。僕はどうしても、その溝を埋めることができませんでした。
 頭を壁にぶつける患者さんを保護室に収容するのを手伝って、自分は何も変わっていないと思いました。
 刑務所と病院は似ている。僕にとって・・・・・。
 やはり、自分には無理だったのでしょうか。小豆島が近い。病院から帰宅する僕に、海からの風は鋭く通り過ぎました。
 病院のプレイルーム、誰も使っていない卓球台の横にある長椅子に、新人看護婦と患者さんが座っているのを見て、嫉妬しました。それがどんなにか自分が求めている姿であったか・・・・・。看護士免許を取得して五年、娘も小学生になりました。けれども、自分が看護士であると思えた日はありません。
 全身熱傷の患者さんの体に軟膏をすり込みながら、ふと手をとめました。今、自分は「良くなるように、良くなるように」そうつぶやいていなかったか。今度は、はっきりと声にしました。冬が終わろうとしていました。やっと、一歩踏み出せた気がします。

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 2005年度(19期)「社会の真ん中で」 橋本 アリサ

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 「携帯電話を取り出してみられえ。数字の5の上にぽつんと点が出とりゃあせんか。これが、ありがてんじゃ」
 竹内昌彦さん、六十歳。生まれは中国の天津。戦後、本土への引き揚げ船の中で肺炎をおこし、一歳で右目の視力を失う。左目のかすかな視力も八歳の時、完全に闇に閉ざされた。現在、岡山盲学校の講師である。 小さい頃から体格がよく、負けん気が強かった。左目がかすかに見えていた小学校一年生の時、「めくら」と言って石を投げてくる子供には、家の前で待ちぶせし、石を投げ返した。給食にごみを入れられ、食べて笑われた時には、教室の後ろにあった消化器の栓を抜いてばらまいた。
 「教師いうのは、はずれが多い。でも、時々は当たる。小学校二年生の時、担任の島村先生は新学期最初の日にこう言うた。『みんな、このクラスの竹内君は目がよう見えんのじゃ。竹内君のせきはどこがええと思う』みんなは口々に前の方がええ、いや前の真ん中がええ、結局、島村先生は『じゃあ、みんなが考えてくれたように、竹内、今日から一番前の真ん中の席がおまえの指定席じゃ』それからは、みんながわしに親切にしてくれた。島村先生が親切にした子を誉めちぎるんじゃ。今頃になって、あれが教育なんだなと思う」
 小学校三年生の時、視力を完全に失い、公立小学校より盲学校に転校した。全盲になったことは辛かったが、愛情深い両親に勇気づけられ、勉強熱心な中学生に育った。
 しかし、中学三年の時、盲学校高等部には理療科コースしかないことを知らされた。
 「おめえの進路はあんましかねえ。と、これは十五歳の少年にとっては残酷ぞ」
 そして、なにもかもやる気をなくした。
 高等部に上り、希望のない毎日を過ごしていた。ある日、近所の八百屋のおばさんに頼まれ、あんまをしてあげた。
一年あがらなかった腕が治ったという。おばさんは八百屋で一番おいしい大きなすいかをかかえ、竹内さんの手を握って、何度も礼を言った。
 「わしは人に感謝された事がなかったから、あんまという仕事をなめとったなあと思った。」
 それから、真剣に自分の将来のことを考えた。本もいろいろ読んだ。中でも東北に住む一般庶民、眞尾悦子さんが書いた「たった二人の工場から」という本に感銘を受けた。東北の片田舎、明日の食糧も儘ならない貧しい家族だが、印刷機を買い、地域新聞の発行に希望を持ち続けるという夫婦の物語だ。
 「わしはこの本から幸せの窓口を見つけた。人間は愛のある生活と夢、この二つがあれば生きていけると考えた」
 あんまという職業に展望が開けた高校二年の時、担任の上野先生が言った。
 「竹内、もし本気で勉強がしたいなら教師になるという道もある。全国で唯一、東京教育大学に全盲の人が受験できるコースがある。」
 全国でたった20名の定員である。盲学校用の参考書などない。人に読んでもらって書き取り、連日夜中の二時まで勉強した。
 そんな中、全盲の竹内さんが大学受験するというので、山陽新聞の記者が取材を申し込んできた。当時の山陽新聞の「社会の片隅で」というコーナーだった。
 「わしの記事を読んで、二人の女性が励ましの手紙をくれた。一人は八十歳のおばあちゃん、もう一人は点字でくれた十九歳の女性。八十歳のおばあちゃんの返事はおふくろにまかせて、十九歳の女性は自分で返事を書いた」
 その女性は高校の時、公民館主催の点訳講座で点字を覚えた。何回かの文通を経て、彼女は竹内さんに生物年表を点字で作ってあげた。その彼女が現在、竹内さんの妻である。
 「人生というのは山あり、谷ありじゃ」
 大学に合格し教職にもつけ、結婚もできた。幸福を手に入れたと思ったが、最初に生まれた男の子が脳性小児麻痺だった。一言の言葉も発することもなく七歳の時亡くなった。
 「結婚に最後は賛成してくれた妻の父親にすまんかった。次は健常児と神に祈った」
 そして、健常児の男の子が生まれ、四年後にも元気な女の子を授かった。
 現在、竹内さんは岡山盲学校で講義をする一方で、全盲の子供たちの親のサポートもする。
 「支えが必要なのは、子供より親じゃ。子供は産まれた時から目が見えん。その環境を当り前に受け入れている。嘆くのは親の方じゃ。あきらめる親、自分の都合を優先する親。今、日本では四百人に一人の割合で視覚障害児が生まれると言われとる。四百分の一のくじをひいた自分の子供が、もっと住みやすい社会を、携帯電話の5が真ん中にあるような、社会を作ってくれ」

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 2004年度(18期)「風鈴職人・篠原儀治〜江戸の技を次々代に繋ぐ〜」 足立 剛

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 どこかで見たことがあると思ったら、石川さゆりと、キンチョウ蚊取り線香のCMに出ていた。篠原儀治(八〇)、江戸風鈴の老舗・篠原風鈴本舗の当主である。
 江戸風鈴は、一二〇〇度の坩堝の中で飴状に溶けた種ガラスを、共棹と呼ぶガラス管の先に巻いて取り出し、宙吹き細工する。三工程である。最初に小さな口球を吹く。次に口球の先に径八センチの本球を吹き瓢箪状に成型する。これを共棹から鋏(やっとこ)で切り離してから本球を包丁で切り取る。本球職人と口球職人とで素早く共棹を交換しながら作っていく。
一時間に七〇、一日五〇〇、年間一〇万個を作る、と儀治はいう。
 いくつか径を測ってみた。全て八センチ、寸分も狂いもない。驚嘆しながら壁を仰いだら、『江戸川区無形文化財工芸技術保存者』の認定額が目にとまった。
「なあに、一三の時から吹いてきて、江戸風鈴を作っているのは、此処だけになっちまったしね。」
事も無げにそういうと、儀治は江戸風鈴の歴史を語り始めた。
 風鈴と似たものに風鐸があるが、宙吹きガラスの風鈴は江戸中期から。問屋が職人に下請けで作らせる仕組みが整うと、安くて清涼感のある風鈴は、「呼び声もなく買い手の数あるは音に知らるる風鈴の徳」と歌われる。
 戦後、風鈴の音(ね)は人々の心を和ませたが、神武景気の昭和三〇年(以下昭和)、問屋制が終わった。「もはや戦後ではない」と経済白書が括る時代の風は、高級感の水沢風鈴に吹いていたのである。四三年、水沢風鈴が年商一五〇万個、三億五千万円のブームに沸く一方で、江戸風鈴は奈落の底へ降る。
 「食えりゃいいと腹据えて、祭りで風鈴を売り、冬は焼き芋売りながら夜っぴて共棹吹いたが、四九年には、一〇年前に九軒あった同業者がみんな居なくなっていたな。」
 三九年といえば、東京オリンピックでテレビ視聴率が八五%を記録した年である。その二年前、受信契約は一千万を越えていた。音への関心が自然から電子音に向かう時代に、古い技法の江戸風鈴を守るなどとは蟷螂の斧というべきか。
その時、法曹界を目指していた長男の裕(現五三)が、司法試験に落ちたのを機に、家業を継ぐよ、といった。
 「老舗は、俺たちが一番新しい、といえなきゃ衰退しかないからね。いろんなことをやってきたよ。」と、儀治は回想する。
宙吹きでミニ風鈴のイヤリングを作り特許を得る。ループタイを三〇個試作して三五〇〇円の値札を付けたが売れない。一三五〇〇円にしたら三日で完売した。阿漕なことをしたと自己嫌悪。以後風鈴に徹する。音響をよくしようと種ガラスに鉄粉を混ぜたら輝度が冴えない。鉛を加えクリスタルにした。球の厚みや膨らみ加減を工夫し、塗料に高級顔料に替えた。三日持てばよいと謗られた江戸風鈴が、八〜九年は褪せないし、少々の衝撃では毀れぬまでになった。
「四七年に、京成デパートが『この道一筋展』を始めてね。八年後に『日本の伝統工芸展』と改まったが、これで弾みがついて、長いトンネルを抜け出たのさ。」
 高度成長期に逼塞し忘れられていた職人技が、過度の経済成長の歪である公害や経済成長の停滞、量産によらない良品を求める消費者意識、国際化の兆しなどで、ようやく見直されたのである。「平成になって、六〜八月は地方のイベントや海外アンテナショップなどに出突っ張りでね。」と頬が緩む。
 儀治の楽しみの一つは、例年一〇〜一二月に体験学習にやってくる、約三千人の児童、生徒たち。学校は関東を中心に東北から中部地方に及ぶ。受け入れのきっかけは女性差別を騒がれたハウス食品のCM『私作る人僕食べる人』。
「風鈴も『私作る人あなた使う人』では独善じゃないかと考えていたら、区内の学校が、体験学習させたい、といってきた。引き受けたら、子供たちは、思い通りにできなくてもいい表情(かお)で、大事そうに持ち帰って行く。礼状や文集は、世界で一つしかないものを自分で作った喜びに溢れていてさ。それで思ったんだ。いつかは毀れる風鈴だけに、暮らしの中で、夢とか思い出として、心の中に生きていればいい。子供たちが此処で楽しんで、ちょっぴり優しい気持ちになって自分を大切に思ったり、風鈴を慈しんでくれたなら、職人冥利に尽きるんじゃないかって。」
 今年三月、大学を卒えた孫娘の由香利(二三)が、口球職人の修行を始めた。一〇月、儀治は、小柴昌俊、緒方貞子、森繁久彌、山田五十鈴、日野原重明、鈴木俊一など存命一二人と並ぶ、名誉都民に登録された。
 儀治はきっぱりいいきった。
「後一〇年の天命。江戸風鈴の行方を見定めるよ。」

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